これは「やばい」よ。

 新元号が発表になった。私の暗い予想は外れたが、むしろ「令和」の方が更に暗い。世の中の脳天気でおめでたい人たちは、ずいぶん無邪気に騒いでいたようだが、何がめでたいものか。「令」は「命令」の「令」である。出典となった『万葉集』に出てくる「令月」はいい意味の言葉だが、文字の成り立ちから考えても、「令」は元々強制する、正に「命令」の「令」なのであって、それがなぜいい意味に転じたかは分からない。おそらく「玲」あたりの文字が音通(同音であることを利用して、別の漢字を当てる)を起こした結果に違いない。平和は政府(政権)の命令をおとなしく聞いてこそ実現するのだぞ、心せよ。「令和」にはそういうメッセージが込められているのではないか?「冷」に通じる「令」の響きも冷たい。
 平居はあまりにも天の邪鬼だ、なぜそう悪意的にばかり解釈するのか?と言われるかも知れないが、それは人間の信用というものがなせる技である。信用できない人のやることは、とことん信用できない。それは当然のことではないか。
 話は変わる。
 3月29日は離任式であった。たいていどの学校もだと思うが、離任式の午後は、職員室の大掃除、机の移動である。ただ、現在の勤務先、塩釜高校が普通でないのは、キャンパスが東西二つあって、キャンパス移動の場合は、ほとんど「引っ越し」とも言うべき作業になる、ということである。私は「引っ越し」組だ。
 それはともかく、午前中に行われた離任式には、卒業生も100人ほど訪れた。私が副担をしていたクラスの担任も異動なので、親しい生徒がたくさん来た。せっかく来たついでに、ということで雑談になる。私の回りに、数名の(元)女生徒がやって来た。

生徒1「平居先生は来年もいんの?」
平居「さっき、壇上で紹介されなかったんだからいるに決まってるだろ。」
生徒1「先生、担当何年生?」
平居「まだ言えないよ。」
生徒2「3年で副担だったから、次は1年の担任とかなりそうじゃねぇ?」
生徒1「えっ!?平居が担任?やばくねぇ?」
生徒3「やば。絶対やばいよ。」
平居「ふふふ。“やばい”っていったいどういう意味だよ?」
生徒2「いや絶対やばい、って。」
平居「もう1回高校生やるってなったら、平居学級どう?」
生徒1「う、面白いかも。染まるとやばいけど・・・。」

 今に始まった話ではなく、塩釜に限ったことでもなく、全国津々浦々まで「やばい」は氾濫している。
 「やばい」は元々「矢場い」で、「弓矢が飛び交うような」=「危険な」という意味だっただろう。それが、なぜか意味的大膨張を起こし、素晴らしく美味しいものを食べても「やばい」、スポーツで素晴らしいプレーを見ても「やばい」、テストでいい点数を取っても「やばい」である。つまり、「やばい」だけを聞いても、それがいい意味なのか、悪い意味なのか、まったく分からない。
 古語に「いみじ」という言葉がある。善悪に関係なく、程度が甚だしいことを表す言葉だ。古文を読んでいて「いみじ」に出くわした時、それが大きく分けていい意味で用いられているのか、悪い意味で用いられているのかを判別することは、古文の文脈を把握していく上で重要なポイントだ。私は、今の「やばい」と昔の「いみじ」がほとんど同じ意味・用法の言葉に思える。
 上の私と女生徒の会話などは、「やばい」判別の格好の練習問題だ。もっとも、言葉の意味というのは、特に会話の場合、言葉だけから伝わってくるものではなく、その言葉を発している人の表情や場の雰囲気、声のトーンなどによって判断されるべきものなので、上の会話における「やばい」の意味が理解しにくかったからといって、現代語能力の不足を意味するわけではない。ご心配なく。
 まぁ、おそらく彼女たちは、平居が担任するクラスなどというのは、まったく普通ではないことを予測し、自分たちの常識が通用しないことを本心で恐れつつ、同時に予想外のことが始まることに対する強い期待感、ワクワク感をも持っている。つまり、彼女たち自身が、自分たちの使う「やばい」を、「好」とも「悪」とも割り切れていないに違いない。それが上の会話の面白さだ。
 言葉の意味に関する理屈の問題はともかく、彼女たちの表情と物言いとが、私にとっては抱腹絶倒、愉快な出来事だったのである。先日、入学者説明会で公にしていることなので、私が来年度1学年主任であることは機密事項というわけではないのだが、私はあえてそのことを彼女たちには言わなかった。担任になったら「やばい」平居が、来年度1学年主任であることを知ったら、彼女たちはどんな反応を示すだろうか?想像して楽しむのも悪くない(=兼好風)。