「てしまった」考(2)

 さて、「垣間見てけり」→「垣間見てしまった」、「心地惑ひにけり」→「心が動揺してしまった」をどう考えるべきだろうか?
 私は「完了形」とは何かについて、かつて若干の考察をしたことがある(→こちら)。それは、中国語をヒントに考えてみると、完了形が使われている場所では必ず「変化」が起こっている、完了形は「変化」を表すことこそが役割だ、ということである。
 男は奈良の町で、ある屋敷の中をのぞき見した。本を読んだり、走ったりなら、行為は継続的で、終了というのがあるので、行為の完了ということが考えやすい。しかし、「見る」ならともかく、「のぞき見」という行為の終了というのは分かりにくい。だから、のぞき見についてはむしろ「始めた」ということにポイントがある。だとすれば、「垣間見てけり」は、さっきまでは屋敷の中をのぞき見していなかったが、今は見たということで、確かに「変化」を伴っている。
 のぞき見した男は、寂れた旧都の屋敷でありながら、都の貴族の屋敷にいてこそ似つかわしいような場違いに美しい女性を目にする。それ以前の心は平静であったのに、今は激しく興奮している。これは正に「変化」である。「垣間見てけり」以上に完了形がぴったりだ。
 「のぞき見してしまった」という現代語には、「のぞき見しなければ心が乱されることもなかったのに」とか、「さほど深刻な気持ち(明確な目的)もなく」といったニュアンスが含まれるだろう。また、「心が動揺してしまった」は「もう引き返せない」というニュアンスを含むようにも思われ、「動揺した」に比べると、強い表現であると感じられる。
 思えば、文法書や辞書には、「つ」「ぬ」が完了だけではなく、強意(確述)の意味を持つと書いてある。「垣間見てけり」「心地惑ひにけり」を見てみる限り、どうやら、完了と強意とは連続し、渾然一体、区別することが難しい。静止しているものは目に付きにくく、動いているものは目に付きやすい。それが、完了と強意が区別しにくいことの原理なのではないか?
 いずれにせよ、訳語に「てしまった」を使うと、単に変化が起こったとか、行為や現象が完了したとかいう以上に強い意味を持つようだ。それが、原文にも含まれるニュアンスなのかどうか、現代人である私にはよく分からない。したがって、「てしまった」と訳すことが正しいのかどうかも分からない。少なくとも、完了形だというだけなら、その訳が必須ということはないだろう。「垣間見てけり」「心地惑ひにけり」の訳は、「のぞき見した」「心が動揺した」でも十分だ。むしろ、口語訳は過去形と区別の付かないものでもいいから、何がどのように「変化」しているのか、それを文脈の中で確認してみる、ということこそが大切であるようだ。
 完了なら「てしまった」と訳し、強意なら「きっと~だろう」と訳すなどというマニュアル化は、それだけで「分かった」という気分になってしまうという点で危険である。「分からない」方が言葉は豊かな世界を描き出す。しかし、生徒はひたすら分かりやすさを求め、面倒なことは拒絶する。その点で、打消や過去といった明瞭な助動詞と違い、完了の助動詞は、学ぶ側にとっても教える側にとっても手強い。
 だがやはり、完了は変化を表す、それが意味を強めることにもなる、口語訳では無理にそれを表現しなくてもいいから、そのことを分かった上で、何が変化しているのかちゃんと確認する、それによって生じるニュアンスがどのようなものか、生徒と一緒にあれこれと想像してみる・・・私にはこんなことしか出来ない。(完)


(補)辞書には「つ」と「ぬ」の違いについて、「つ」は意志的で「ぬ」は自然推移的であると書いてある。今回は、ことを面倒にするのでこの点に触れなかった。概ね正しいと私も思っている。「垣間見てけり」「心地惑ひにけり」でも、それは当てはまる。