昨日も今日も、多くの場所で真夏日、あるいは猛暑日になったらしい。一方、我が塩釜・石巻は、よく晴れて日射しは強いが、爽やかな乾いた風が吹いて、快適そのもの。ドイツかポーランドあたりの真夏のようだ。
6月に入り、高校が一斉に授業を再開した結果、通勤の電車が混み始めた。朝は、まだ石巻で空席がなくて困る、という事態にはなっていないが、石巻から2駅目「蛇田」では既に満席である。今日は遂に、帰宅時の電車が満席で立ちんぼだった。あ~あ、よかったなぁ肺炎。電車の混み具合についてだけは、つくづくそう思う。
(2020年6月9日付「学年だより№49」より①)
髪の長い出来損ないの人魚のようなキャラクターをよく目にする。諸君も知っていると思うが、「アマビエ」と言って、伝染病の感染を予言し、止める能力を持つ妖怪らしい(←調べてみると、真面目に相手にする気になれない、かなりいかがわしい伝説だ。「背に腹は代えられない」かよほど暇かどちらかだろう)。校内にも、それを描いた「STOP感染拡大」のポスターが貼ってある。驚いたことに、政府が作ってネットで配信しているのだとか。政教分離(←意味分かる?民主主義国家における大切な政治原則)のはずの日本政府も、ついに「神頼み」だ。
古典を読んでいると、病気になった時には「物の怪(=悪霊)が取りついた」と言い、「加持祈祷」をしている場面によく出くわす。「昔は、医学が未発達だったから、お祈りをするしかなかったんだ」みたいなことを言う人がよくいる。「気の毒だ」もしくは「バカだ」というニュアンスである。だが、なんのことはない、あちこちで目にする「アマビエ」は、程度の差こそあれ、現代人だって何でも分かり、何でも出来るわけではなく、自然に振り回され、最後には「祈る」しかない存在であることを教えてくれる。
ワクチンや治療薬が開発されたら・・・?大丈夫、自然はまた新しいウィルスや細菌を生み出してくる。自然の全てが分かり、制御できるなんてあり得ない。
【ブログ用の補足】
上の記事で、「大丈夫」という言葉を使うにあたり、私は相当ためらった。最近、「大丈夫」という言葉が、かなり濫用されているということは、色々な場面で話題になる。果たしてこの「大丈夫」は、許されるのだろうか?
漢字からも想像がつくと思うが、中国語で「大丈夫」というのは「一人前の立派な男」という意味である。「大丈夫、明日はきっと晴れますよ」と安心させたり、励ましたりするようなニュアンスは皆無だ。かつて、来日した日本語のできない中国人(中年女性)が病院に行った際、医師が紙に「大丈夫」と書いて見せたところ、意味が分からず目を白黒させた、次に「安心」と書いて見せたところ意味が通じた、という話を聞いたことがある。
たとえば、建物の2階から転落した時に、「お~い、大丈夫か?」「大丈夫です」と言うのは、「立派な男」=「強い男」=「強い・負けなかった」と考えれば、「大丈夫」の意味としてあり得るように思う。だが、それは肉体的な強さを意味するからいいのであって、天気や病状について、「心配するような状況ではない」という時に「大丈夫だ」と言うのは、やや逸脱の度が強いような気もする。
最近問題になるのは次のような使い方だ。
「お茶飲みますか?」「大丈夫です。」
「お茶でいいですか?」「大丈夫です。」
前者は明らかに「いりません」の婉曲表現だが、後者は悩ましい。「お茶でいいです」の意味にも、「いりません」の意味にも取れそうだ。元々の意味と大きく違う上、曖昧である=二つ以上の意味に取れる、というのがよくない。
言葉は生き物で、意味・用法は絶えず変化しているとは言え、あまりにも本来の意味から離れてしまった使い方は望ましくない。「大丈夫」の濫用についても、私はあまり肯定的な見方をしていない。
ところで、上の私の文章中における「大丈夫」はいったい何なのだろう?人間は自然に比べると弱いと書いておいて、いや、克服する方法を持っているではないか、いや、やっぱり克服はできないのだ、となる。ワクチンや治療薬が開発されたら、「人間は自然よりも弱い」という前提は否定されそうだが、いや、決して否定されたりしない。つまり、「否定されませんよ、安心して下さい」が「大丈夫」で、これは「安心して下さい」と言っている点で、「大丈夫、明日はきっと晴れますよ」の「大丈夫」に近い。
だとすれば、先ほど「逸脱の度が強い」と書いておきながら、なぜ自分では使うのだ?ということになる。確かにその通り。ところが、この「大丈夫」をあえて他の言葉に置き換えようとすると、なかなか難しい。書きながら「あまりいい表現ではないぞ」と自ら思いつつ、どうしても他に適切な、しっくりくる表現を見つけられなかったのである。
となると、「大丈夫」には立派な存在価値があるようだ。その微妙なニュアンスを、私はまだ説明できない。