アギーレ監督無罪説



 サッカー全日本の監督、アギーレ氏に関するスキャンダルや、それに対するいろいろな人々の反応は、11月くらいから耳に入っていた。年末、旅行に行っていて社会問題に触れていないということもあるので、代表もアジアカップの現地合宿に入ったタイミングで、私の考えを少々書いておこうと思う。

 八百長の疑いがかけられ、スペイン警察が起訴したというニュースが流れた直後から、このまま日本代表の監督をさせておくのはまずい、という意見は多かった。選手の心理にも、アジアカップの結果にも悪影響を及ぼす、というのが主な根拠である。一方、本人が頑なに否定している現在、無理に解任すれば、日本サッカー協会の側に数億円の違約金を支払う義務が生じることもあるので、推移を見守るしかないという意見も多かった。私は、例によって(→参照1参照2)「推定無罪」の原則を貫くべきだと考えていた。つまり、裁判で検察によって有罪が立証されない限り、容疑者はあくまでも容疑者であって、無罪であると考えるべきなのだから、アギーレ氏についても、無罪という前提に立ち、平然と監督をやらせておけばいい、ということである。八百長の疑いがかけられている一戦で勝利したことが、日本代表監督選考の絶対的な理由になった、ということはあるまい。

 仮にスペインで裁判になった場合、判決が出るまでには、日本と同様に長い時間がかかるそうである。次のワールドカップまでは3年しかないので、私が言うように、推定無罪の原則を尊重して、アギーレ氏の職務を継続させた場合、アギーレ氏は「容疑者」のまま監督として最後まで指揮を執り続ける可能性が高い。だが、それも仕方がない。

 「火のないところに煙は立たない」ということわざはあるが、一方で、重要な地位、目立つ立場にある人ほど人から妬まれ、陥れようとしてあらぬ疑いをかけられることも少なくない。アギーレ氏の場合が後者でないという保証はない。

 原則は大切にしなければ、人権が守られない。当局によって疑いをかけられる=罪人というのは、当局に対する脳天気な信頼であり、人権保障上、非常に危険なことなのである。殺人の容疑者が市井で生活するのと違って、彼が監督の座に在り続けることで、人が死傷するような罪を犯す可能性があるわけでもなく、A代表で八百長が可能にも思えない。つまり、「推定無罪」を盾にアギーレ氏を放置しても、たいした害はないのである。だとすれば、検察(権力機関)を批判的に見つめ、人権を守るということの重大性と比べ、マイナスは明らかに小さい。マイナスが小さく見えないのは、「推定無罪」の重要性、権力機関の恐ろしさが分かっていない人であって、問題はむしろそちらにある。

 日本代表チームの成績が思わしくなかった場合(アジアカップのみならず、ワールドカップの予選・本戦も含めて)、八百長容疑が選手に心理的動揺を与えたからだと言う人は必ず現れるだろう。しかし、そんな批判を認めれば、監督、または選手に実力が不足していたことから目をそらし、次へ向けて成長のチャンスを失わせることになってしまう。そこからは何も生まれてこないことも肝に銘じるべきであろう。


(余談)

 私が名古屋にいた日に、アギーレ氏が初めてこの事件に関して記者会見を開いた。その最後で氏は、「有罪を証明されるまでは何人たりとも無罪だと思うので、仕事をする権利はある。推定無罪は法によって定められている。」と語っていた。また、同じ記者会見で、アギーレ氏は「私のことを知っているスペインやメキシコでもスキャンダルになっていない。スキャンダルになっているのは日本だけだ。」という不満もしくは当惑を示している。前者は私の主張と一致するが、本人が言えば、図々しい印象を与えるし、後者は、彼が現在、日本代表の監督という重い立場にあることから、メキシコ人・スペイン人とは利害関係の度合いが違うのであって、メキシコやスペインでスキャンダルにならなくても、日本で問題にされることに不思議はない。

 それはともかく、私はこれらを、記者会見の翌日に当たる12月28日、名古屋の宿泊先の新聞で読んだ。『朝日』『毎日』『日経』『中日』の4紙である。ところが、前者を、『中日』では「謹慎を考えるか?」という問いの答えとし、『朝日』『毎日』では後者が同じ問いの答えとされていた。また、『中日』『日経』では、後者が「謝罪の気持ちはあるか?」という問いの答えとなっている。

 スペイン語を日本語に置き換えているわけだし、紙面を作る上での制約もあってか、会見はあくまでも要旨なので、多少の語句の異同が生じるのは理解できる。だが、問いと答えの関係が明らかに一致しないのは理解できない。紛らわしく他愛もない問いではあるが、新聞ってこんなものかな?と印象に残った。