小沢切りは自殺である



 一度は落ち着くやに見えた小沢一郎問題が、再び大きくなりつつある。前回(12月28日)に書いた通り、小沢氏を巡る与野党の攻防は、「哲学」がなく、利害打算のみがあるという日本の精神的貧困を象徴的に表す。「起訴されたら離党または除名を」などという声も、「推定無罪」という原則を考えると、政治家達がこぞってそんなことを言う世の中は恐ろしいと思う。全てが衝動的に見える。なぜそんなに急ぐのか、とも思う。

 今回、国会冒頭での政倫審への出席を小沢氏が拒否し通せば、証人喚問ということになるのかも知れないが、そうなるともはや民主党と小沢氏の関係は決定的に悪くなり、離党または除名ということにならざるをえない。これは、民主党にとって自殺行為である。単に、小沢氏が党籍を離れれば、その子分とも言うべき相当多くの民主党議員が、彼に従って離党し、分裂状態に陥るからと言うのではない。組織というのは、多少傾向の異なるメンバーを抱え込んでいた方が、みんな意見が一致していて仲良しの集団よりも強い、逆に言えば、純粋な集団は脆弱だと思うからだ。小沢氏という「邪魔者」を排除して、現在「反小沢」と言われている人々のみで仲良く民主党を運営するのは、数の問題を別にすれば、非常にやりやすく楽しいことかも知れない。しかし、そのような集団では、異論を唱えることが難しい雰囲気が生まれやすく、従って、組織の緊張感が失われる上に、組織が迷走し始めた時には自力で修復できない、ということになるのである。

 そもそも、政党などという集団は、同じような政治思想の持ち主だけが集まって作るものなのだから、純粋であって当然ではないか、と言うかも知れないが、だとしたら、果たして、現在の小沢対反小沢の争いは政策論争なのであろうか?いや、そうではないだろう。小沢対反小沢の具体的な政策論争など、ほとんど耳にすることがない。消費税や社会保障を巡る閣僚内での意見の食い違いの方がよほど目立つ。反小沢の小沢氏に対する拒否感は、小沢氏の手法に対する反感や、その親分的な影響力に関する権力闘争的意味合いが強いのではないか。

 小沢氏を除名(または離党)し、民主党が分裂し、政権運営が完全に行き詰まり、そこで現在の民主党の面々が、自分たちの哲学の欠如に目覚めれば、一連の内部騒動も価値ありと言うべきだが、どうも私にはその可能性も見えない。弁証法的な「止揚」はいつどのようにして実現されるのであろうか。何とも先の見えない話である。