教育現場と多様性・・・『河北』投稿補遺



 先月24日に、私の投稿が『河北新報』で取り上げられた話は、既に書いた。1ヶ月が経つが、今のところ、思ったほどの反響はない(『河北』では、1月15日に概ね賛同の投書が一つ出ただけ)。こう書けば語弊はあるかも知れない。電話で、直接、或いは年賀状で、かれこれ30名ほどの人からコメントがあった。中には、「読んだよ」と言うだけで賛否不明のものも2〜3含まれていたが、残りは「よくぞ書いてくれた」式のものである。コピーして職場で配ったという話も、3〜4聞こえてきた。もともとこういうものは、プラス評価はコメントし、マイナス評価は無視という形で表すという傾向があるので、私に直接マイナス評価が届かないのは、あまり不思議でもない。

 しかし、実は、私はある種の覚悟、すなわち、厳しい反論があることを想定していたのである。「袋だたき」さえあり得ると思っていた(まだ1ヶ月なので、「なかった」とはまだ言えない。今後ぼちぼち表れてくるかも知れない)。それは、あと500字くらい許されれば、投稿の中で触れられたことなのだが、字数制限(1400字)が厳しいために反論の余地を残さざるを得なかったことである。それは、一つに、お前はそんなに忙しい生活をしていないだろう、という私を知る同業者からの批判であり、もう一つに、上司(上位者)の命に服するのは当たり前だろう、という民間企業の方からの批判、そして三つ目に、県や国の意思だって、民主主義国家においては国民(県民)に発しているのだから、従うのは当たり前ではないかという「ご立派」な意見である。

 一点目は簡単。あれはあくまでも一般論のつもりであって、私自身の個人状況に基づくグチではない、というだけでおしまい。大事なのは、二つ目と三つ目であるが、これらは問題として同じことである。教育現場にとって、非常に本質的で、大切なことだと思うので、この機会に補足的に書いておこうと思う。ただし、これは私のオリジナルな意見ではない。昔から言われてきたことである。

 これについては、極端な状況を想定してみると分かりやすい。「Aという政党が全ての議席を獲得した。A党は、今後自分たちが政権を失うことの無いよう、A党の考え方に賛成する国民を作るべく、教育改革を始めた。これがうまくいけば、全ての日本人は、A党の考え方こそ素晴らしいと考えて、選挙では必ずA党に投票し、A党は永遠に政権を握り続けることが出来る・・・。」もちろんこれは、「教育」ではなく「洗脳」である。かつての日本や、今の北朝鮮はおそらくこのようであろう。

 「教育」とは、どのように考えることがより一層正しいかを考えさせ(哲学的思考)、それを通して、A党の考え方がいいのかどうかを批判的に判断する能力を養うものでなければいけない。従って、民主主義国家において、「民意」によって、つまりは多数決によってことが決まったからと言って、少数意見がないがしろにされるようなことがあってはならず、教育もその大切さを十分にわきまえて為される必要がある。そのためには、教育現場に政治が介入することは基本的に「悪」なのである。政治が口を挟めば、必ずそれは与党にとって不都合なことはさせない意思を含んでしまうのだ。できるだけ多様な教職員が、さまざまな価値観を許容しながら、多少でたらめでも、誰しもが自由にものを言える場所として存在しなければ、学校はその本来の役割を果たせないのである。民主的に決まったやり方だからと言って、何か決まった枠にはめようとすることは、逆に民主主義の維持装置としての学校の機能を破壊することになってしまう。

 1月4日付『朝日新聞』の「教育 あしたへ」という連載の中に、ハーバード大学の理念に関する感動的な記事があった。アメリカの名門大学であるハーバード大学では、留学生が、率にして東京大学の5倍に当たる10%もいる、様々な国籍、人種、宗教の人間が在籍し、彼らを専門別に分けることなく寮に詰め込み、様々な学び合いを期待している、そして、ハーバードがそのような多様な集団であることを、学長自身が誇りを持って語っているという記事であった。以前NHKで放映されたハーバードの政治哲学の授業(『ハーバード白熱教室』)でも、その第9回で、マイケル・サンデル教授は「Affirmative action(積極的格差是正措置)」の問題に関し、1930年代のハーバードが、その多様性を確保するために、法廷で「Affirmative action」の正当性を訴えた話を取り上げていた。ハーバードが多様性の確保を非常に重要視しているのは、今日に始まった話ではない、伝統なのであろう。それは学術の発展のために決定的に大切なことだと考えられている。

 日本の大学は、学問の進歩・発展のために多様性を確保すべく、ハーバードのような意識的な努力をしているかというと決してそうではない。また、そのような多様性の確保がメリットを生むのは大学だからこそであって、高校以下ではさほど重要なことではない、というのも間違いだと思う。もちろん、高校は大学と違って、「定説」と化した事象を学習する機会が多い。そのため、自治や学問の自由を守る必要性は低いと言えるかも知れない。しかし、多様性を必要とするのは、決して学術の進歩・発展のためばかりではない。

 なぜ生物に雄と雌が存在するのかと言うと、それは、異なる遺伝子の掛け合わせという作業を行うことで、変化と多様性を生み、それによって環境適応能力を高めているのだ、という話を聞いたことがある。一昨日の小沢一郎問題ではないが、純粋は一見よく見えて、実は脆弱なのであり、それはあらゆる場所に通用する法則だ。

 日本では、「効率化」という経済原則に従って、公の場に市場論理、企業論理を持ち込むことが増えた。しかし、それはいかなる場面でも有効なわけではない。民間で当たり前なことが、教育現場でそうあるべきだということには決してならないのである。ここでも大切なのは、私がよく言う「本来どうあるべきか」という哲学的思考なのであって、それに照らして考えれば、民主主義的な意思決定システムが正常に機能していたとしても、教育現場は決してそれに従属してはならないということになる。