「ハーバード白熱教室」または哲学



 ハーバード大学の人気講義がテレビ番組(「ハーバード白熱教室」)になったというのは、以前から知っていたが、その長大さに見ることをあきらめていた。今年の1月1日、2日、その12回の講義が一気に放映されたのを機に覚悟を決めて録画し、それから約20日をかけて、先週半ばに、ようやく全てを見終えることが出来た。そして、その後数日をかけて、授業者であるマイケル・サンデル教授の著書『これからの「正義」の話をしよう』(鬼澤忍訳、早川書房)を読んだ。テレビには、学生との問答があり、ライブ独特の雰囲気もあってよいが、内容を理解するだけなら、立ち止まったり、読み直したり出来る本の方がいい。

 さて、授業については、これが名講義と言えるのかどうかはよく分からなかった。示される事例は確かに面白く、それが授業の質を高めていることも間違いないが、それがハーバード史上まれに見る人気で、世界的話題にまでなったとなると、その理由が私にはよく分からない。同じ科目で他の人による、「平凡な」講義を同時に見せてくれると、その価値もはっきりしたであろうに・・・。

 むしろ面白かったのは、学生の姿である。カメラに写る範囲で居眠りは皆無。私語もない。1000人が聴講しているというが、その中で、相当きわどい問題に関してでも発言する学生は必ずいて、明確に意見を述べる。一方、帽子をかぶったまま授業を受け、発言の時すらそのままという者、ガムを噛みながらの学生が多数いる。授業の始めと終わりの起立・礼なんてない・・・。これがアメリカの一流大学の姿であり文化なのだな、と新鮮だった。

 「政治哲学」という言葉は、耳新しくも何ともないが、具体的にはよく分かっていなかった。いざ見てみると、法哲学であれ、教育哲学であれ、一般的な哲学であれ、どのような事象を題材に考えるかが異なるだけで、哲学としての共通性の方がはるかに大きい。わざわざ「政治哲学」などという独立した学問分野にする必要性なんて、ほとんど感じなかった。「哲学」は「哲学」なのである。

 私は相当以前から、「哲学」または「哲学的思考法」こそ、自分が高校生に教えるべきものだと考え、折に触れて文章も書いてきた(例えば、このブログの2004年3月1日の記事参照)。思えば、最近の記事でも、政治や教育に関して「哲学」の不在を嘆くこと多い。

 サンデル教授によれば、「哲学は私達を、私達が既に知っていることに直面させ、私達に教え、動揺させる学問」であり、「慣れ親しんで、疑いを感じたこともないほどよく知っていると思っていた学問を、新しい情報を与えることによってではなく、新しい物の見方を喚起することによって、見知らぬものに変えてしまう」学問である(この部分は本にはない)。サンデル氏は、これを12回の講義の最初で述べ、最後で繰り返している。それは、彼がこのことを哲学の原点として重要視し、強調しているということである。もちろん、これは私の考えと同じだ。

哲学には答えがない、一度答えが出ると、「果たしてその答えは本当に正しいのか」という形で、新しい思索が始まってしまう。高校生が数学を好む理由としてよく挙げるのが、「はっきりした答えが出ること」である。そんな立場からしてみれば誠にやっかいな学問であると思う。好まれるわけがない。しかし、今回この一連の授業を見ながら、現代が混迷の世の中だと言われるからこそ、やはり原点を探し求める学問としての哲学は必要なのだ、という思いを新たにした。そして、それを身に付け、また身に付けさせていくための方法としては、対象が1人であれ、1000人であれ、サンデル教授が行っているような「対話」しか方法はないように思えた。その点、人間はソクラテス以来何も変わっていないし、アメリカの風土という事情はあるにしても、あえて1000人を相手に対話型の授業を行ったサンデル氏は偉いとも言えるのである。