大学入試の「原点」



 昨日は、9月8日の『読売新聞』「変わる大学入試」を読んで書き始めたものの、記事の具体的な部分には触れずに終わってしまった。

 さて、『読売』には、桜美林大学教授・田中義郎氏の意見が掲載されていて、そこには次のようにある。

「面接や書類選考による選抜は「不公平」という声は根強い。だが、現行の入試が本当に公平だろうか。筆記試験による入試自体が、塾通いに費用をかけられる都市部の裕福な家庭の子に有利な仕組みになっている。」

 これはよく見られる論調のように思う。だが、裕福な家庭の子供が成績優秀だというのは、果たして「塾通いに費用をかけられる」からだろうか?私はそう思っていない。むしろ、裕福な家庭の親は勤勉である場合が多く、それが子供に影響を与えて、子供もよく勉強し、成績も優秀になるのだと思う。「影響」というのは、親の学ぶ姿、知的に仕事をする姿を日常的に目にし、それが人間として普通の姿だと思う(誤解する?)という精神的なものもあれば、家の中に本がたくさんあったり、静かな勉強部屋が確保されているといった物質的なものもあるだろう。いずれにせよ、お金があるから「塾」というのは、短絡的に過ぎるし、塾に行かなければよい成績が取れないかのような見方は貧しい。また、私は、自分が東大や京大を出たわけではないので、あまり偉そうに言えないが、お金のかからないシンプルな勉強の仕方ほどよい、と信じている人間でもある(参考→こちら)。学力と遺伝的要素との関係も否定できない。

 だとすれば、そもそも「公平」という価値観が、はなはだ捕らえどころのない、価値観として追求しにくいものであるということになるだろう。

 こんなことを考えていて、私の頭に浮かんでくるのは、アメリカにおける「アファーマティブ・アクション(積極的格差是正措置)」に関する議論だ。これについては、「ハーバード白熱教室」で日本でも有名になったマイケル・サンデル氏が、その授業の中で考察していて、それが甚だ便利なので、ここではその考察に頼って考えてみよう(マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』早川書房、2010年)。

 サンデルは、テキサス大学ロースクールの入試で、ある白人が合格するに十分な点数を取ったにもかかわらず、「アファーマティブ・アクション」の発動によって、同等またはそれ以下の成績のマイノリティが合格し、自分が不合格になったことを不服(差別)として訴えた事例から説き起こしている。訴えに対する大学の反論は、「テキサス法曹界の人種的・民族的多様性を促進することが、テキサス大学ロースクールの使命の一つだ」というものであった。

 いくつかの議論を経て、サンデルは、法哲学者ドゥウォーキンの意見を肯定的に紹介する。そもそも入学選考において、学業面で優秀な者が合格すべきだということを主張する権利は存在しない。「大学の使命を定義し、選考方針を定めるのは大学自身であって、出願者ではない。」「大学がみずからの使命を定義し、選考基準を定めることではじめて、他の出願者よりもその基準を満たしている出願者に、入学を許される正当な見込みが生じる。」つまり、大学の選考基準は、その大学の使命次第であって、「学力」といった単一の物差しを使う義務は存在しない、ということである。

 これは、私も同意できる考え方である。それに同意できないとすれば、それは「大学」についての一般的なイメージ(先入観)が存在し、大学自身が決定すべき「使命」を外部の人間が勝手に決定してしまっているか、勉強したという労力を評価するのが入試だという、いわば道徳的な(=サンデルの表現)価値観が存在するからだろう。

 大学が、学術を進歩発展させるための場所であれば、筆記試験によって計られる学力はやはり重要だし、昨日書いたとおり、問題の作り方というものが、その学力の質を決めることになるだろう。だが、特に大学進学率が50%を超えた今日においては、大学の使命を学術に限定することは不可能であり、いろいろな大学がいろいろな使命を負って存在すると考えるのが現実的である。だとすれば、ドゥウォーキンもしくはサンデルが言うように、各大学はその「使命」という原点に立って入試を考えるべきなのである。国が一律に示すべき筋合いのものではない。(続く・・・かも)