100%はない・・・大学入試について



 一昨日の『読売新聞』で、大学入試に関する特集記事を読んで、古くて新しい「入試」の問題について、少し触れておこうと思うようになった。

 私は「共通一次」の3回生だ。「共通一次」によってマークシート方式というものが一般化し、同時に、こんな試験を受けるために勉強してもバカになるだけだ、と言われるようになった。「共通一次世代」はバカの代名詞で、私は「バカ3代目」とも言える。

 さて、そのバカ製造システムは、10年で「大学入試センター試験」と名前を変え、一律5教科7科目という縛りが消え、多くの私立大学が参加するようになった。「マークシート方式=バカの製造」という根幹は温存され、かろうじてリスニング試験の導入によって、改善のイメージを作り出した。しかし、私の記憶によれば、「共通一次」は正に「一次」であって、その後、全ての国公立大学で、記述式を中心とする個別学力検査が行われた。科目数は少ないが、まぐれ当たりや、知識の曖昧さを許さない「記述式」というシステムは確保されていたのである。ところが、「センター試験」は、私大を中心に、これだけで合否を判定するという大学・学部が続出し、その点では大きな後退を伴うものと言えなくもなかった。

 その「センター試験」方式、あるいはその他も含めた現在の入試の問題を解決するという目的で、「教育再生中央会議」なるものが、昨年8月に首相に提出した答申では、「センター試験」を「達成度テスト(仮称)」へと改編し、1点刻みを段階方式に改め、その上で、各大学には面接を始めとした人物本位の個別試験を重視するよう訴えている。さて、このやり方がベターかどうか・・・?

 私は甚だ懐疑的だ。まずは、これでまた大学の先生の負担が増え、本来のお仕事である研究と学生の指導にしわ寄せが行くのではないかと危惧する。そして何よりも、将来的に学業において伸びるかどうかを100%(に近い)確率で判定できるなどあり得ない、と思うため、あまり入試にエネルギーを費やしすぎるのは考えものだと思っているからだ。

 何かにつけて「面接」「面接」と言うが、そうすれば優秀な人材を見抜けるかと言えば、そんなことはないのではないか?私などは、同じ高校生を3年間見ているわけだが、それでも、5年後、10年後に彼らがどのようになっているか、職場で有能な人材として活躍しているかどうか、について、何ら確かな見通しを持つことができず、卒業生と街で会っては、いい方にも悪い方にも裏切られ続けているのである。まして、仮に大学が最大限のエネルギーを費やしても、1時間の面接を3回行うのは至難だろうが、それによってその学生の将来的な伸びしろを見抜けるとは思えない。しかも、大学は全ての高校生から有能な人物を探すのではなく、自分の大学を受験した学生の中からしか選抜できない。だとすれば、その段階で、大学の何かしらの評価によって、その大学を受験する学生の質がある程度限られてしまい、膨大なエネルギーを費やしてまで「人物重視」の面接を行う価値を感じない大学もたくさん出てくるだろう、と思う。

 現在のAO入試、推薦入試は、受験生の側からは、できるだけ楽に早く合格を決めてしまうための手段、もっとはっきり言えば、勉強しなくても入れる入試として受け止められている。大学の側からは、早めにできるだけ多くの学生を確保するための手段として用いられている。多様な学生の確保、学力は多少低くてもやる気のある学生の確保といった「本来の目的(?)」は、まったくただの「キレイゴト」に堕しているように見える。

 やる気があれば学力が低いということはないはずだし、基礎的な学力がなくても大学の学問はできる、ということもないだろう。だとすれば、やはり無難なのは、記述・論述式の学力試験だ、ということになると思う。ただし、一言に「記述・論述式の学力試験」とは言っても、その質はピンからキリまでである。ピンの試験問題とキリの試験問題の質的違いは、記述式試験と面接の違いと比べて、決して小さいとは言えない。

 勤務校の性質上、この5年ほど大学入試問題を見る機会がないので、少し古い記憶によるが、理想は東京大学の入試問題である。特殊・些末な知識を求めたりは決してせず、いわゆる「難問・奇問」も存在せず、ただ基礎的な知識を確実・徹底的に身に付け、遺漏なく柔軟に使いこなせるかどうかが問われる。どうせエネルギーを費やすなら、こういう問題を作ることに費やした方が、よほど確実に学生の質を見ることができるだろう。

 もちろん、それでも100%期待通りの学生が入ってくることはあり得ない。このあきらめは大切だ。どんなやり方をしても結局一長一短だとすれば・・・総合ポイントでベストは何か、そう考えるしかあるまい。(続く・・・かも)