東大の大学院生・・・新入試考

 もうひとつは、新しい大学入試である。12月6日の新聞に、その問題やら、採点システムに関することやらが載っていた。なるほど、努力はしているなぁ、と思ったが、記述式の採点システムなど、まったく問題のない運用ができるとは思えない。私も、試験の採点の時には常に頭を悩ませるのだが、平仮名一個で文章のニュアンスはがらりと変わる。国語の場合、どうしてもグレーゾーンは大きい。それを機械を使えば的確に判断できるかと言えば、やはり難しいのではないか?
 大学の入試システムについては、かつて一文を書いたことがある(→こちら=この翌日も参照)。今でもさほど考えは変わっていないので、まずはそちらをご覧いただきたい。
 話は変わるようだが、この2〜3年、東京大学の大学院を出たとか、在学しているとかいう人に会う機会が多い。1990年代から、東大は他校に先駆けて大学院重点化を行い、大学院の定員も増やしてきたからであろう。今春の東大生数を見てみると、学部生が14,002人であるのに対して、大学院生は12,605人である。学部は4年、大学院は5年だが、学部にも医学、獣医学、薬学と6年制の学部(科)があるので、ほとんど同数に近い。当然、学部を卒業して就職する人も相当数いるはずなので、大学院へは他大学出身者も沢山いる、ということである。私が会った多くの東大院生(院卒者)も、実は大半が他大学出身者だ。『東京大学の概要』なる冊子を見てみると、今春の学部卒業生のうち、就職したのはちょうど3分の1である。それとほぼ同数(1,000人あまり)が、他大学から東大の院に流入していることになる。
 ある所で、他大学出身の東大の院生についての話題が出た。ある人が、「私、東大の院生に会うと必ず、大学はどちらですか?って聞いてしまうんですよ。」と言った。その場にいた別な人が、「えっ?私もですよ」と相づちを打つ。彼らは「東大生は優秀だけど、東大の院生はあまり優秀という感じがしませんよね。やっぱり本物の東大生は、高卒で入った人たちなんですよ」と続けた。ははぁ。お気の毒様ながら、実は私の実感も同様だ。
 私は、東大の院生をバカにするためにこんな話を書いているのではない。問題が多いとされ、膨大なエネルギーと予算を費やして大学入試のあり方を変えようとしている一方で、その問題が多い入試で選抜された東大生が優秀だと実感されることの意味を問いたいのである。つまり、東大に入学した学生が「さすがは東大生だ」と評価に値するとすれば、現行の入試制度、入試問題でも、十分に優秀な人間を選ぶことは出来るということなのだ。
 もちろん、どのような観点で見るかによって、「優秀」の意味は変化するのだけれど、それでも、直感的に「この人は優秀だ」と実感できる何かというのは存在する。東大生にも例外はいるだろうし、その例外とて、1〜2%ではなく、もしかすると20〜30%というレベルかも知れない。しかし、どっちみち100%が優秀だというのはあり得ないとすれば、現在の入試による東大の選抜はまず成功していると言ってよいだろう。
 上に紹介した過去の記事にも書いたとおり、東大の入試問題は良問である。では、東大生が概ね優秀であるのは、その良問のおかげなのか?いや、確かにそのような部分はあるだろうけど、必ずしもそれだけではない。一般的な模擬試験で優秀な成績を収め、評判のよくないマークシート方式のセンター試験で高得点を取った人間だけが東大を受験するからである。東大の良質な入試問題に挑戦する前に、選抜の少なくとも半分以上は修了していると言えるだろう。だとすればなおのこと、現行の制度・問題で差し支えはない。
 「優秀だ」と言われる東大の学部生でも、社会的な問題意識や純粋な学問に対する情熱には問題が大きい、という話もよく聞く。大学入試問題をどうするかによって、高校教育というのは大きく影響を受ける。記述式を取り入れ、思考力を問うという試みが、果たしてその改善に効果を示すのかどうか?選抜が今の制度で問題ないとすれば、新入試が価値を持つのはその点においてなのだが、公平で客観的ということが大切にされる入試では難しいだろう。教育全体、いや社会全体が当たり障りのない世界を捨てて、もっと理想主義的な熱を帯びてこないことには・・・。