「F」というお店



 我が家から駅に行く途上に、Fといううらぶれた小さな飲み屋がある。その前を毎日自転車で通っていた私は、3年ほど前のことだろうか、その店の明かりが、週に一度のペースを超えて、時々消えるようになったことに気が付いた。意識して見始めると、休業の日は少しずつ増えていき、やがて休業の日の方が多くなり、そしてぴったりと店の開くことがなくなってしまった。

 これは、私の想像力をひどく刺激する光景だった。「小料理 酒房 F」と書かれたその看板から、私はその店を切り盛りしているのが、一人の善良な老婆、いや、「おばあちゃん」若しくは「おばちゃん」であろうと思った。「F」若しくは「F子」というのが、おばあちゃんの名前なのであろう。どんな人の、酒を飲みながらの愚痴にも、穏やかに耳を傾け、時には若造を叱咤する、そんなおばあちゃんの姿が、私のまぶたの裏には浮かぶのである。

 彼女は体調を崩したに違いない。通院しながらも、体調の良い日を選んでなんとか店を続けていたのであろう。この時期、私は学校からの帰路、自転車で明かりが消え、シャッターの閉じられた店の前を通るたびに、そのような勝手な想像に基づいて、そのおばあちゃんの回復を心の中で祈っていた。

 やがてその甲斐もなく、おばあちゃんは入院したか、亡くなったかで、店は永久に閉じられた。やはり私は、その想像に基づいて、閉店とおばあちゃんとを惜しんだ。そしてその後、私は仙台までの電車通勤を終了し、Fの前を通ることもまれになって、それは記憶の一隅に残るだけの店になってしまった。

 ところが、先週の金曜日、街の中でちょっとした用事があって、珍しく、日付の変わる頃にその店の前を通りかかる機会があった。すると、明かりがついているのである。私は、おばあちゃんの復活を心からお祝いしたい気分になった。しかし、よく見ると、店の看板が少し変わっている。「小料理 酒房 F」の「小料理」の部分に、看板と同じ色のガムテープが貼られ、「酒房 F」となっていたのである。

 これは経営者が変わったことを意味するのだろうか?私の想像の中の親しみ深い「おばあちゃん」はやはり再起不能となって、別の人が店を継ぎ、ただその連続性を否定するために、あえて看板の一部を変えた、ということなのではないか?それにしても不可解だ。酒を出す和風の店である以上、酒だけを出して、肴となる小料理を出さないということは考えにくい。店名を変えずに、「小料理」を消すことで、店が新しくなったことをアピールするというのはどうしても不自然なのである。

 私はこの店に入ったことはない。興味を引かれ始めて以来、入ってみようと思ったことが無いわけではないが、これくらいいろいろと想像を作り上げてしまうと、事実が明らかになるのは恐い、もしくは興醒めなのである。私の心の中に生きる、素敵なおばあちゃんは、ぜひそのままで生き続けて欲しい。

 私の愚かな独り相撲の話である。