知識と感動、またはモーツァルトの『レクイエム』



 昨日は、私がかつて所属していた合唱団の演奏会があったので、旧知の人々に会いたいという思いもあって仙台まで足を運んだ。その合唱団とは「仙台宗教音楽合唱団」(通常は宗音(しゅうおん)と略)という。バッハを中心とするヨーロッパの教会音楽をレパートリーとするので、そんないかめしい名前が付いているが、別にクリスチャンの集団というわけではない。ただの市民合唱団である。

 曲目は、

1:H・シュッツ ドイツ語によるマグニフィカート

2:ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼルとアンリ・デュパルクの歌曲(各2曲)

3:W・A・モーツァルト レクイエム(R・レヴィン校訂版

4:同 ヴェスペレ・ハ長調よりラウダーテ・ドミヌム

というものであった。この内、2は3のために招いた独唱者によるステージであり、合唱団は歌わない。

 交響曲スコットランド」やヴァイオリン協奏曲ホ短調で有名なメンデルスゾーンのお姉さんが、弟同様に天才的な音楽家で、作曲家としても多くの作品を残している、というのは初めて知った。その作品にも大いに興味をそそられたのだが、やはり、プログラムの目玉はモーツァルトのレクイエムである。

 私は、音楽との関わりで、いわゆるクラッシックの占める割合が9割を超えているが、その興味関心の相当に大きな部分が、音楽に対する純粋な感動ではなく、音楽史や書誌学的な好奇心、探究心によって成り立っていると思っている。他のいかなる音楽でも、この分野ほど長期にわたって文献が残され、曲の歴史や構造、作曲者の人間としての生活や心理というものの考察が出来る分野はない。しかも、楽譜やスケッチを始めとして、膨大な文献が残されていながら、それが完全ではなく、非常に中途半端であるから「考察」の余地は大きい。更に、楽譜そのものには音楽としての価値が無く、必ず誰かの手によって演奏されて価値を生むという、再現芸術としての音楽の特徴によって、それら文献学の成果が「演奏」のスタイル(解釈)に反映されながら、議論され続け、深められていくとなれば、面白くないわけはないのである。

 これは音楽に対する余りにも知的なアプローチであり、音楽が、純粋に心で聴かれるべきものであるという立場から見れば、「邪道」と言うべきかも知れない。しかし、しょせん趣味の世界であるから、面白いと思えるのなら、音楽に対する本来のアプローチとは、などという議論はどうでもいいようにも思える。

 さて、そんな人間にとって、作曲者が未完で残し、後世の人間が知恵を絞って手を加え、いくつもの復元版を完成させたこのレクイエムなどは、復元の根拠も含めて、ある意味で最も興味深い知的好奇心の対象である。

 出来るだけマニアックな話に走らないように気をつけつつ、若干の解説をするなら、この曲は、モーツァルトの死(1791年)の直後に、弟子ジュスマイヤーによって最初の完成版が作られた。これが長く「定番」としての地位を保ち続けた。しかし、1970年代になると、突然、それに対する批判と新たな復元の動きが現れる。それは、昔の音楽を、当時の楽器、当時の演奏方法で演奏しようという学究的態度の流行と、モーツァルト没後200年を前に、何かしらの記念的な作業をしようと考えた結果である。

 昨日、「宗音」が演奏したのは、それらの作業の一つとして、アメリカの作曲家・ピアニスト・音楽学者であるロバート・レヴィンが完成させた版(1991年初演)であり、仙台では初めての演奏らしい。私は、わずか3日間ほどながら、山岸健一という素人離れした音楽評論家(本職は高校教諭、私もかつて一緒に歌っていた)の驚異のホームページと、この曲の我が家にある唯一の楽譜(ジュスマイヤー版の総譜)で、レヴィン版とは何ぞや、ということを勉強して行った(プログラムにおける、ざっと原稿用紙30枚分ほどの解説もその山岸健一君の作)。

 私が最も興味津々だったのは、「Lacriomosa」という楽章の最後に来る「Amenフーガ」であった。ジュスマイヤー版では、ここにたった二小節の「Amen」があるだけだが、レヴィン版では、なんと88小節の、しかもフーガという複雑な様式の「Amen」が置かれているのである。なぜこんな事になったかと言えば、1961年にベルリンの国立図書館で、この「Amenフーガ」の16小節のスケッチ(草稿)が発見されたからである。新しい完成版の作曲者達のうちの何人かは、これを採用して補筆した(ドゥルース版は127小節!!)。しかし、我が家にある5枚のCDは、すべてただの「Amen」であり、私は「Amenフーガ」をこれまで聴いたことがなかった。

 聴いてみて、これはジュスマイヤーの勝ちだと思った。レヴィンの「Amenフーガ」は、どうにも取って付けたような不自然な音楽で、私はまったくいいと思わなかった。合唱が荘厳・簡潔に「Amen」を叫んで終わりにする方が、どうしても「Lacriomosa」の終結としてふさわしい。発見されたスケッチだって、それがある以上、モーツァルトが「Amenフーガ」を構想していたのは確かだとしても、レクイエム完成の暁に、本当にそれを曲に取り入れたかどうかは分からないのである。あれこれ考えた上で最後は捨てるなどということは、珍しくも何ともないはずだ。一方、私は懐疑的に以下のようなことも思った。

 それは、私がジュスマイヤー版の「Amen」をいいと思ったのは、単に聴き慣れているだけではないのか?私はその音楽歴の初期の段階で、ジュスマイヤー版=モーツァルトのレクイエムとすり込まれているために、それ以外のもの全てに違和感を感じるのではないか?ということだ。

 また、ジュスマイヤー版の問題点をいろいろと指摘し、新しい完成版を作った人達の中に、これが「ジュスマイヤーという凡庸な作曲家が手を加えたモーツァルトのレクイエムだ」という先入観を持って、いわば悪意的に問題探しをしなければ、果たしてその問題点は今ほど明らかになったのだろうか?つまり、ジュスマイヤーが補筆したという知識なしに、モーツァルトの真作だと言われて聴けば、完全なモーツァルトの作品に聞こえるということはないのだろうか?モーツァルトの真作は、全て本当に「モーツァルトらしい」のだろうか?というようなことも考えさせられた。

 冒頭に書いた通り、もともと、クラッシック音楽の面白さには知的探究の面白さ多くあるのだから、音楽を聴きに行くに当たって、知的探究をしてみたくなるのは当然なのだが、今回のようにそればかりが重要な問題になってくると、今度は、先入観や知識に基づくことなく、純粋に音楽を鑑賞することの難しさを感じ、それに対する強い欲求を感じるようになってくる。人間(私?)というのは、わがままなのである。