凡人の幸せ・・・オシュトリーガ版モツレクのこと

 宮城鎮魂の日(東日本大震災記念日)の今日は、家の周りが騒々しくなるだろうと昨日書きつつ、実は朝から家を出て、娘の進学に関する用事で仙台へ行った。用事が済んだ後は、娘と別れて、電力ホールに「3・11祈りのコンサート」というのに行った。東日本大震災の翌年から、コロナによる中止を挟んで、今年で10回目。その間に5回、「ウィーン・フィルサントリー音楽復興祈念賞」を受賞したという企画であるが、今回をもって最後にするという。
 無料の演奏会で、事前の申し込みも必要ないため、危険なものを感じて開場の1時間半前に様子を見に行くと、既に長蛇の列ができていてびっくり仰天。結局、急遽その場で整理券が配られ、当初の予定より30分前倒しで入場が始まった。完全に満席。おそらく、入場できなかった人もいたのではあるまいか。
 毎回、演奏するのはモーツァルトのレクイエム(モツレク。以下レクイエム)である。合唱団は佐々木正利氏が指導に当たってきた東北大学混声合唱団、仙台宗教音楽合唱団、盛岡バッハカンタータフェライン、山響アマデウスコアなど、そしてオーケストラは仙台シンフォニエッタを中心とするメンバーであった。もちろん、指揮は佐々木正利氏。
 実行委員長挨拶の後、黙祷、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」、そして「レクイエム」なのだが、レクイエムの途中、Amenのフーガが終わったところで15分ばかりの小講演が入るという変則形であった。講演の講師は、震災の時に公立志津川病院に内科医として勤務していた菅野武氏。
 震災後12年、この演奏会10回目にして私が初めて聴きに行ったのは、埼玉在住の友人から、合唱団の一員としてステージに立つので、終演後呑みに行こう誘われた、というのが主な理由だったのだが、モーツァルト「レクイエム」最新の楽譜、ミヒャエル・オシュトリーガ版を使って演奏するというのも重要な理由であった。
 言うまでもなく、モーツァルトはレクイエムを完成させることなく死んだ。弟子であったジュスマイアーが、師の遺志を継いで完成させたのだが、当然のことながら、それが本当にモーツァルトの遺志を的確に表現したものなのか、技術的な完成度は十分なのか、ということについてはいろいろな意見があった。そこで、様々な人が、それぞれの考えによってジュスマイアー版とは違う補筆を行い、完成させた。その最新版が、オシュトリーガによるものなのである。初演は2019年だが、楽譜の出版は、なんと昨年の6月。まだ1年も経っていない。
 オシュトリーガは、1975年ドイツ生まれの作曲家・指揮者・音楽学者・鍵盤楽器奏者である。Michael Ostrzygaと書くことからすれば、スラブ系の人物のようである。ネットで検索すると、「オストシガ」と表記されている記事と「オシュトリーガ」と表記されている記事が見つかる。本人がどのように発音しているのかは分からない。
 「Yamagishi Kenichi's website」や「おやぢの部屋2」といったサイトに、この版についての解説を見付けることができる。会場で、詳細な解説が配布されると思っていたら、プログラムには版についての言及が一切なかったので、せっせと予習をして行った甲斐があった。とはいえ、それらの解説には、従来の版とどのように違うかということだけが書かれていて、オシュトリーガがどのような発想と根拠に基づいて新しい版を生み出したのかということについては書かれていない。それは仕方がない。なぜなら、彼ら(上のサイトの主宰者)は録音や楽譜によって分析しているだけだからである。オシュトリーガは、それらをどこかで説明しているに違いないのだが、彼らもそれを見付けることはできていない、ということだろう。
 基本的には、レヴィンやバイヤーによる版と共通の部分が多いのだが、何と言っても大きな違いは、Sanctusが短調に書き換えられている点である。これの根拠は私にもだいたい分かる。「おやぢの部屋2」にもある通り、ジュスマイヤー版はSanctus(ニ長調)、Osannna(ニ長調)、Benedictus(変ロ長調)、Osannna(変ロ長調)と続く。本来、同じ調性でなければならないOsannnaが違う調性になっているのである。これを解決させることが、従来の改訂者にとって大きな問題であった。オシュトリーガは、それをSanctus(ニ短調)、Osannna(変ロ長調)、Benedictus(変ロ長調)、Osannna(変ロ長調)とする画期的な方法で解決させたわけだ。ただし、それが許されることなのかどうか・・・私は知らない。歌詞の中身を考えなければ問題はないが、考えれば、Sanctus=「聖なるかな!」と神の栄光を称える場面で短調は変な気がする。
 予習せずに聴きに行ったら、本当に青天の霹靂、椅子から跳び上がるくらいの衝撃を受けただろうと思う。それほど、Sanctusが長調から短調に変わるというのは大きな変化だ。しかし、なにしろ音楽の才能が一切ない私である。この大変革によって調に整合性が生まれたと言っても、では、ジュスマイヤー版やバイヤー版の問題点が解決されたからすっきりしたか、と言えば、決してそんなことはない。そもそも、ジュスマイヤー版に違和感を感じていなかったのである。Osannnaがニ長調から変ロ長調に下がっても、それを音楽の流れの中で不自然と認識するほど、私の音感は鋭敏にできていないということだ。
 あんまり細かいことがよく分かる耳を持っていると、そんなことがいちいち気になって音楽が楽しめない、ということもあるのだろうか。一方、私なんかは、違いがあってもほとんど気にならないが、机上の問題(文献学)としては楽しむことができる。いいなぁ、凡人。それにしても、版が何かとは関係なく、久しぶりに聴いたモーツァルトのレクイエムは名曲だった。