当たり前の負担・・・愚かなる震災遺構

 明日は東日本大震災から12年目の記念日。土曜日でもあることだし、我が家の周りはさぞかし騒々しくなることだろうと気が重い。
 そんな今日、朝日新聞に「震災遺構 維持費に苦慮」という記事が出た。震災遺構として残された施設の傷みが激しく、維持管理にお金がかかる、自治体にとってそれが重荷だ、という記事である。それによれば、例えば我が石巻市の場合、大川小学校と門脇(かどのわき)小学校を震災遺構として整備するためにかかった整備費が18億6千万円、年間の収入見込みは3500万円で、支出は7000万円だ。整備費用は国が負担したが、その後の維持管理は自治体だ。石巻市は年に3500万円ずつ赤字を補填し続けなければならない。しかし、私は3500万円で済むとは思っていない。劣化が進むことによって維持費は増え、客は減少すると思われるからである。また、地下鉄や博物館など、公が新しい施設を作る時の目論見は、たいてい外れるからだ。「外れる」というのも単なる偶然ではない。議会や世論対策で、非常に甘い見通しに立った、願望と言ってよいような数字が示されるから外れるのである。たまたまではなく必然だ。
 「ふん、遺構が負担になるのなんて当たり前だろ。今になって初めて気付いたような言い方をするのがおかしい」と、私は鼻で笑う。例えば私は、2016年の門脇小学校をどうするかという公聴会で、これを遺構とすれば、将来にツケを残すとはっきり言っている(→その時の記事)。あまりにも簡単に予測できる、当たり前のことではないか。
 記事には、震災遺構を検討する有識者会議の重鎮の言葉が引用されている。「当時はどうやったら残せるかが重要で、将来いつまで保存する、といった議論は欠けていた。自治体の負担が重くなることも懸念されていた。」というものだ。これも噴飯ものだ。「いつまで」って、遺構は永久保存が原則だろう。負担が懸念されていながら、それを真面目に考えなかったのは、今のことしか考えられないという点で、過去の大津波から教訓を得ることができなかった=歴史を学べない精神構造と同じである。
 記事では、原爆ドームが国の史跡に指定されていて、国が維持管理をしていることに触れ、震災遺構も同様の扱いをするのが本当はいい、というような書き方をしている。これもまた愚かな議論だ。人間の愚かさを象徴する現代の十字架と言うべき「原爆ドーム」と、津波という単純極まりない自然災害によって作られた震災遺構は、まったく異質なものである。また、管理の主体を自治体から国に移しても、公金が投ぜられることに違いはない。しかも、財政の不健全度は国の方が大きい。
 門脇小学校の目の前には38ヘクタールの大公園、石巻南浜津波復興祈念公園が広がる。これは「遺構」ではないため、今回の記事では問題となっていない。だが、この公園の維持管理もたいへんな負担のはずだ。
 更に言えば、ゆとりあるきれいな町並みを目指して作ったか、土地が売れそうにないから作ったと思しき路側の植え込みや多くの公園も負担だ。実際、路側の植え込みには常にぼうぼうと雑草(主に侵略植物であるセイタカアワダチソウ)が茂り、刈り払いが行われるのは年に2~3度だけだ。何もかも、全て、作った時から分かりきったことである。被災者への感傷的な同情と、経済の活性化、土建業者の利益のために全ては行われた。
 今後、これらの震災関連施設はますます重荷になってくる。本当の教訓は、津波の危険性ではなく、愚かな人間の対応だ。