ひたすら楽しい「ミサ曲」



 県総体が終わった6月3日(月)、仙台駅東口でバスを降りると、妻の実家で一風呂浴びさせてもらい、すぐに東北大学萩ホールに、鈴木雅明指揮のバッハ・ロ短調ミサ曲を聴きに行った。今をときめくバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)の総帥であり、昨年のライプツィヒ・バッハメダル受賞者である巨匠がこの日指揮したのは、イェール大学スコラ・カントールム合唱団と、ジュリアード音楽院古楽オーケストラ(学生だけなのか、OBを含むのかは分からなかった)という限りなくプロに近いアマチュア集団(本当にアマチュアなのかな?)であった。日本とシンガポールの合計4個所で公演を行うアジア・ツアーの2日目となる。

 東北大学東北学院大学、それに河北新報社の主催ということで、入場料は驚きの2000円!しかし、指揮者は鈴木雅明氏だし、オーケストラだってジュリアード音楽院のメンバーとなれば、そうそう変な演奏にはなるわけがないと思って、売り出し早々にチケットを確保していた。(私とロ短調ミサ曲との関係等は、2011年7月31日の記事参照)

 入り口でもらったプログラムを見て、合唱がわずか27人、しかも独唱者がその中から出ることを知って、これはなかなかの演奏になるはずだ、と確信した。人数は、少なければ少ないほどごまかしがきかない。合唱が最大で8声部に分かれるバッハの大曲・ロ短調ミサは、並のアマチュア合唱団なら、100人以下ではなかなか演奏できない曲である。

 演奏者がステージに登場し、細長いナチュラルトランペットを見た時、期待は更に高まった(2011年8月23日記事参照)。入念極まりないチューニングが終わり、合唱団と共に鈴木雅明氏が登場して、すぐに曲は始まった。

 後は、ただただ感心しながら、夢中になって音楽を聴いていた。男声の独唱者に多少の難はあったが、オーケストラも合唱も本当に上手い。この曲は、独奏楽器が後から後から変わっていくのだが、その度に独奏者は立って演奏した。声楽付きのコンチェルトの趣である。極めつけは、第1部の第11曲「Quoniam tu solus sanctus」で登場した無弁ホルン(楽譜の指定はコルノ・ダ・カッチャ=狩猟ホルン)である。このような演奏スタイルを私は初めて見たのだが、ホルンの朝顔を真上に向け、両手で縦笛を持つような姿勢で楽器を構える。演奏の非常に難しい楽器のはずなのに、音を外すこともほとんどなく、安定した美しい音色で独奏パートを吹ききった。ナチュラルトランペットも秀逸。他の楽器も、それぞれに素晴らしかった。

 音楽とはなんと楽しいものかと、一瞬たりとも退屈を感じることなく、下山直後の疲労も忘れて、2時間の曲を聴かせてもらった。これは値打ちのある演奏会だったなあ、やっぱロ短調ミサ曲は絶世の名曲だ、などと思いながら、車を運転して石巻へ帰る途中、ふと思ったのは、私が今日聴いたのは本当に「ミサ曲」だったのだろうか?という変な疑問である。

 確かにそれは、大バッハロ短調ミサ曲だったのだが、ミサ曲と言えば、本来、厳粛なる祈りの音楽のはずである。しかし、私は敬虔な信仰も、厳粛な祈りも、高い精神性も感じることなく、その生々溌剌とした演奏に、正にバロック音楽の醍醐味とも言うべき躍動感と、明るく陰のない楽天的な世界だけを感じながら、ひたすら楽しい2時間を過ごしたのである。それは、音楽として確かに素晴らしかったのだが、こうなると、「ミサ曲」の演奏として立派なものだったと言えるのかどうかは、いきなり悩ましくなってくる。いくらプロテスタントの信仰に生きたバッハが、カトリックのミサ曲を書いた以上、信仰とは別の所に主眼があったはずだとは言っても、これは行き過ぎではないか?

 しかしながら、更によくよく考えてみると、私は本来教会で演奏されるべきミサ曲を、コンサートホールで聴いていたのである。ミサ曲がミサ曲になっていないと、文句を言える立場にはないのかもしれない。ともかく、名人が奏でる名曲は素晴らしい。