速度制限を考える



 6月4日に古屋国家公安委員長が、場所によっては20キロくらいの違反は見逃してもいいのではないか、というような発言をして、話題になっている。私は、それを本音としている人がたくさんいるのは確かだと思うが、果たして公安委員長の地位にある人が言うことかな?とは思う。しかし、問題提起としては非常に面白いと思うので、少し思う所を書いておこう。

 私は以前から、速度制限って何なのかな?と疑問に思っていた。なぜなら、1年365日、雨の日でも雪の日でも、昼間でも夜中でも、運転手の視力が2.0でも0.8でも、その道を走るのが危険になると考えられる限界点が一定というのは理解できないからである。道路が改修されて走りやすくなっても、制限速度がそのままになっているのもよくあることで、これも不合理だ。最良の条件の時にその道路を安全に走れる上限速度が制限速度だ、というにしては、制限速度が厳しいと感じられる場所が多い。もちろん、一本の道路でも場所によって道路条件はけっこう違うわけだから、それに合わせていちいち制限速度を変えていたらかえって分かりにくい、という配慮があるのだろう、とは思う。

 パトカーの後ろを付いて走っていても、制限速度プラス10キロくらい出ていることは珍しくない。先日など、高速道路で、制限時速プラス10キロくらいでパトカーの後を走っていたら、隣を一般車が追い越していった。制限プラス15キロ以上は出ていただろう。度胸があるなぁ、と感心した。パトカーは反応しなかった。

 学校の制服規定と同じで、規則を中途半端に守るというのは難しい。完全に守るのでなければ、どの程度まで逸脱が許されるか、非常に悩ましくなり、場合によっては罰せられた者が、強い不公平感を抱くようになるからだ。速度超過を取り締まるなら、常に、制限速度で切るしかないと思う。少なくとも現在の速度制限では、もちろん、それは非常に不合理で、現実的ではない。

 私は、どの程度の速度なら安全に運転できるか、というのは、運転手がその時の状況の中で判断すべきだと思っている。制限速度を設けるとすれば、取り締まりのための取り締まりにならないように、事故が起こった時に、制限速度を守らずに事故を起こしたのだから判断が甘かったですよ、と、罰を重くする根拠にすればよいのであって、何も無い状態で姑息なスピード測定をするための基準にすべきではない。

 測定をなくせば、スピード違反が認められたと同じことで、人はどんどんスピードを加速させるようになり、事故が増えるという反論はあるかもしれない。その真偽はやってみないとわからない。しかし、速度取り締まりがないからといって、いくらスピードを出してもいいとは普通考えないだろう。事故を起こすと非常にやっかいだという認識は、ほとんどの運転者にあると思う。「制限速度」改め「危険目安速度」を超えて事故を起こした人には、今を遙かに上回る厳罰を科すことにすれば、抑止力も発生するのではないかと思う。さて、どうだろう?

 交通法規の不合理は、速度制限だけではない。見通しのよい交差点で、一時停止の指示を鬱陶しく思うこともあるし、踏切では必ず停止しなければならないという規則も、踏切が故障する可能性の極端なまでの低さを考えると疑問だ。

 どんなことでも、上位の者があれこれ指示・命令を出すようになると、各自の主体的な判断力は低下する。安全に対する責任は、車を運転する人が負う、この発想を徹底させることで、速度超過に限らず、あらゆる場面で運転者は能動的になり、それがかえって事故の少ない社会を作るのではないか?