かえってよかった、検察の不祥事



 検察でとんでもない事件が起こってしまった。正に目茶苦茶である。もちろん、恐ろしいとも思う。しかし、実は、よかったなぁ、という喜びの方が強い。

 私は、2009年4月7日付、本物の「月曜プリント」の裏に、同年4月1日付『朝日新聞』の元東京地検特捜部長、宗像紀夫氏へのインタビュー記事を載せ、今年1月22日付「月曜プリント」で、1月19日付同じく『朝日新聞』の元東京地検特捜部副部長・永野義一氏による記事に触れ、更にそれを引き伸ばす形で、1月23日のこのブログに昨今の検察のあり方についての疑問を書き綴った。これらOBの発言に看過できないものを感じた上、自らの実感による検察に対する疑いもあったのである。そして今回の不祥事だ。

 学校でも、ある生徒の全体的なコンディションがよくないと思いながら、なまじ行動の一つ一つが許容範囲であるために、そう強い指導も出来ない、経過観察を続けることがよいとも思わない、かえってタバコか万引きででも捕まってくれると、指導のきっかけが出来てよい・・・というようなことが時々ある。もちろん、タバコも万引きも困るのだが、それをきっかけに指導がしやすくなり、本人が立ち直るきっかけになるのであれば、それらは歓迎すべき事なのだ。

 同じである。検察がおかしい、おかしいとささやかれつつ、とりあえず法に反することをしているわけでもない、という状況は、改善の決定的なチャンスがないという意味で、非常に困ったことである。かえって、今回のような決定的な不祥事があると、問題を直視しやすい。その意味で、今回の不祥事は実に歓迎すべき事である。

 検察の問題だけではない。マスコミや国民の中に、今まであまりにも脳天気な検察への信頼がありすぎた。検察が起訴しただけで、起訴された人を犯人と決めつける論調、風潮は非常に強い。これは、お上に弱いという日本人の国民性なのだろうとも思う。しかし、検察が罪を立証し、裁判で有罪とされた人だけが「罪人」なのであって、判決の瞬間まで、その人は無罪と考えられなければならないという、いわゆる「推定無罪」の原則が、これほど軽んじられている日本の現状はたいへん危険であり、私はこのこともかつて指摘したことがある(2006年2月6日)。今回の不祥事で、国民の中に検察への疑念が産まれ、「推定無罪」の原則が正に原則通りに機能するようになるなら、不祥事も価値有り、と言うべきであろう。


(参考)2009年4月1日『朝日新聞』、宗像紀夫氏の言葉から

・「最近のいくつかの事件捜査を見ると、『この事件はこういう筋なんだ』という結論が先にあって、それに向けて無理やり突き進むという感じがします。」

・「いい事件をやって名前を上げようなんていう検事がいたら大変なことになります。また、特捜部がちやほやされすぎて、捜査経験があまりない人が箔をつけるために特捜部に来るような変な人事が行われたりしていないかも危惧します。」

・「マスコミは検察と一体になってしまっていますね。弱者の目を持たなければならないのに、強者の目で事件を見ているように見える。」

・・・宗像氏は、今回の事件を見て、「ざまあ見ろ!俺の心配した通りじゃないか」と笑っているであろうか、それとも、後輩の醜態に渋い顔をしているだろうか・・・?