卒業生と学問の方法論



 前任校と関係の深い一週間であった。

 まずは、先週の土曜日、大学も4年目となったH君から電話があった。

 22日(水)は、K塾で行われた「大学入試研究会」(通称「浪人激励会」)に出席した。今年は、いつになくK塾に行った卒業生が少なく、特に私が担任をしていた3年2組(現4年2組)というクラスは、K塾よりもYゼミに多く通っているという珍現象が起こっている。それでも、50人ほどの卒業生が集まり、我が4年2組も、K塾在籍者は全員来てくれて、1時間余りにわたって、いろいろな話が出来た。もっとも、私が一高62回生で関わったのは、4年2組の諸君だけではないにもかかわらず、クラス毎に懇談、ということになると、なかなか他のクラスの諸君とは話が出来ないもので、これはすこぶる残念であった。夜は、昨年の担任団で旧交を温め合った。

 23日は午後から、やはり大学4年目のN君が、遠路はるばる石巻まで訪ねて来た。彼の専門であるドイツ文学のことから、その他の文学・哲学やら、音楽、人物についてまで、3時間半ほども休むことなく語り合った。大学入学後も非常によく勉強しているので、やはり話していて刺激になり、面白い。

その中で、学問の方法ということについて、こんな話があった。最近は、文学部でもアニメのようなサブカルチャー現代文学を卒論のテーマとして取り上げる人が増えた。その結果、ゲーテリルケといった過去の大家は見向きもされず、教授の中にも、そのようなことを専門にする人が少なくなった。これは果たしていいことなのだろうか・・・というような話である。

 私が学生時代、文学部生はとにかく何をおいても語学、そして「ジャイアント(大家)」をやれ、とよく言われた。語学をきちんと勉強しないのは、走り込みをせずにスポーツをするようなもので、後々伸びない、ということで、これは私自身が悪い見本のようなものである。また、「ジャイアント」をやれというのは、彼らは学ぶに値するものを多く持っているから「ジャイアント」なのである、しかし、オリジナリティのある論文を書くことを求められる立場(大学院生以上ということ)になると、過去に研究され尽くされた感のある「ジャイアント」に取り組むことはなかなか事情が許さない、だからこそ、オリジナリティがさほど重視されない学部の卒業論文では、それに取り組むべきなのであり、それによってこそ基本的な思考のパラダイムは身に付くのだ、ということであった。既に大学を離れて20年以上が経ち、私は日々、そのような考え方の正しさを実感している。決してノスタルジーではないと思う。

 N君は、大学の現状が先のようであるらしいにもかかわらず、そのような現状に問題意識を持ち、「前現代」とも言うべきT・マンを主題として卒論を書くべく努力をしているようであった。実に感心、感心。もちろん、そこには何のために大学に行くのかという問題意識の違いもあるので、一概に現代文学やアニメを扱う人々を悪く言う気はない。しかし、私が以前からよく「文化の価値はかけた手間暇に比例する」と言う通り、学問は決して楽なものではない。生涯にわたって伸び続ける人であるためにも、語学と「ジャイアント」への取り組みは忘れたくないものだ。