博士号取得記(1)

 今日、東北大学文学部から封書を受け取った。開けてみれば、5月18日付けの総長名の文書で「博士の学位授与について(通知)  あなたから申請のあったこのことについて、平成29年5月11日付けで博士(文学)の学位を授与しましたので、お知らせします。」と書いてある。驚きも何もない。なぜなら、先々週の木曜日に、学位審査の総元締めらしき研究科委員会という会議で票決なるものが行われ、私が提出した博士号申請論文に対して学位の授与が認められた、という話は、既に審査員であるM教授から連絡を受けていたからである。文書には、学位授与式を9月25日に行う予定である旨書き添えてあるが、「授与しました」という完了形からしても、博士論文の国立国会図書館東北大学図書館への納本手続きを5月22日に行う予定である、と予めM教授から言われていたことからしても、既に博士号は与えられたことになっているのだろう。(その後、教授に問い合わせるとそのとおり。授与式では5月11日付けの学位が与えられるという。)
 せっかくなので、いきさつや学位の意味について、記録として少し書いておこうと思う。
 前史のようなものがあって、本当はその部分が大切なのだが、その話は後回しにする。直接的には、私が学位申請=博士論文の執筆を思い立ったのは、昨年の3月半ば、異動するものとばかり思っていた私が、水産高校に予想外の残留となった時である。水産高校にいると、部活その他の関係で、私は暇である。少なくとも、帰宅が8時を過ぎるとか、土日を部活に取られるということはない。異動後6年間務めた仙台一高山岳部コーチも引退が決まっていた。「小人閑居して不善を為す。」私ごとき「小人」が、いかに人の迷惑にならない時間の使い方をし、「不善」を為さぬか考えた結果、大論文の執筆というアイデアが浮かんだ。思えば、私の母が今年の4月1日に80歳の誕生日を迎える。上手く間に合えば、誕生祝いにはなるかも知れない、との思いも兆した。
 また、私はもともと八方美人的な性格、いわゆる「物好き」「よろず屋」というやつで、一つのことに専念するのが苦手である。専門は何かと問われたら、「雑学」と答えるのが本当は正しい。それはそれで楽しいのだが、なんだか、自分がよって立つ基盤のようなものがはっきりしないまま人生を終えるのも寂しいような気がしていた。少なくとも、既に中国現代史の論文を何本かは世に出しているわけだし、この際、この分野で博士論文が書ければ、さすがに専門と名乗るくらいは許されるのではないか、とも考えた。
 とは言え、私が学生時代の感覚からすれば、少なくとも文学部において博士号は碩学泰斗の称号である。最近はずいぶん事情が変わったという噂も耳にはしていたが、それでも、私にとって現実的なハードルであるかどうかは分からない。1年間を無為に過ごさないための暫定的なハードルなので、1年で書ける程度の論文で学位を出してくれるのであれば、別に母校にこだわる気もなかった。が、物が物だけに、全然知らない大学に突然それなりの分量の論文を送りつけるわけにはいかないと思い、大学時代の先輩に当たるM教授の元に相談に行ったのが、昨年の4月4日であった。
 M教授は、「そろそろそんな話だと思っていたよ」と笑いながら、「紹介する当てもないから、うちで面倒を見てあげよう。書いてみなさい」と言ってくれた。この10年ほどの間に、私がどのような問題意識を持ち、どのような論文を書いてきたかはよく知っているはずである。私は、それらの論文をつなぎ合わせ、重複を削り、若干の補筆をすれば、原稿用紙500〜600枚くらいの論文にはなるだろう、それで通してくれるのかな、と思った。
 3ヶ月あまり作業に励み、私が第1稿をM教授に送ったのは、7月半ばのことである。返信は意外に早く、8月2日に「ご指導」を受けに行くことになった。
 半日にわたっていろいろと問題を指摘してもらい、この時初めて、これはなかなか甘くないぞ、大変なことになってきた、との思いを抱いた。過去に書いた論文をつなぎ合わせるだけでは学位申請論文としては認めてもらえそうになかった。この時から8月末までの約1ヶ月間は、過去1年で私が最も途方に暮れていた時間であった。M教授に言われたことを解決させる自信が持てなかった。いっそあきらめようかとも思ったが、私は作業に既に相当な時間を費やしている。今、作業を中止することは、その時間を無駄にすることであり、それはそれで苦しいことだった。
 悶々としつつ、第2稿の構想をまとめたのは9月上旬だった。この直後から約2ヶ月半、私はブログの記事をほとんど書いていない。言うまでもなく、練り直した構想に基づき、書き直しと書き足しの作業に没頭していたからである。M教授には、10月末をめどに再提出できるようにします、と言っていたものの、なかなかそうはいかず、結局、第2稿を送ったのは11月末だった。この時、分量は原稿用紙約1100枚分に達していた。(続く)