イチローの憂鬱



 大リーグの通常の日程が終了した。結局、文句なしに通用している日本人選手はイチローだけである。

 今シーズンのイチローはまたしても大記録を打ち立てた。しかし、「一流」が大好きなはずの私が、どうも最近のイチローには心ときめかない。原因を考えてみると、まずはいかにも当たり損ないの内野安打の多さ、次にボールを振っての三振の多さ、そして以前に比べるとチャンスに弱いのではないか、というようなことが思い浮かぶ。各所でも時折問題となっているようだが、果たしてそれをどのように考えるべきだろうか?

 ピッチャーで考えてみると、速いストレートで三振を取れるピッチャーを「本格派」と称するが、一方、変化球投手の勝ち星に陰口をたたくなどという事はない。従って、イチローが内野安打でヒット数を稼いだとしても、あまり問題にはならないような気がする。

 しかし、勝ち星がピッチャーの「投球術」の指標だとすれば、勝ちが直球でもたらされようが、変化球でもたらされようが、あまり問題ではない。それに対して、内野安打は果たして「打撃術」の指標になり得るのであろうか。私の答えは「ならない」である。ボテボテの内野安打は、足の速さの結果であって、「打撃術」の結果とは言い難い。打席が右か左かによる有利不利もある。その意味で、変化球投手の勝ち星と内野安打が4分の1にもなるバッターのヒット数は、いささか性質が違う。

 それでも、出塁さえすれば、それがチームの勝利に影響を与える度合いは同じなのだから、いいではないかという話になるかも知れない。だとすれば、その場合問題にすべきはヒット数ではなく、出塁率であるべきだ。イチローはボール球に手を出すことが多く、フォアボールが少ない。最初に書いたとおり、特にこの1〜2年は、ボール球を振って三振というパターンが増えているような気がする。

 イチローはストイックな選手であるという。彼のストイックな精進のたまものとして、36歳になっても故障がほとんどなく、試合に出続け、数を積み重ねることが出来ている。これは確かに賞賛に値することだ。だとすれば、私が最近のイチローに「一流」の美しさを感じないのは、イチローを「打者」として見るからであって、「野球人」いや「野球家」として見れば、美しく見えるだけのことなのかも知れない(実際私は、イチローに対する敬意並々ならぬものがある)。

 日本の野球界では、ロッテの西岡が、1シーズンあたりの猛打賞の日本記録を作ったという。ヤクルトの青木も、2度目の200本安打で、これも日本記録だ。阪神マートンは211安打の日本新記録だという。試合数が違うので、それが直ちにイチローを越えたことは意味しない(イチローの張本越えも同じこと)。しかし、彼らの正真正銘の「打撃術」によって、イチローの記録が書き替えられていくのは快感である。