一昨日、金田正一が死んだ。私がわざわざ書くほどのことでもない。どの新聞でも、2面、3面を使って大々的に報じていた。そりゃぁそうだろう。投手の起用方法がすっかり変わってしまったということもあって、400勝、5526投球回、4490奪三振など、彼が持っているほとんどの記録が空前絶後。本当に「絶後」なのだ。これを上回る記録というのは、バットの届く範囲全てをストライクにするとか、バットの重さを1.5㎏以上にするとか、ボールやバットの反発力を半減させるとかいった、ほとんど革命的なルール変更でもしない限り生まれないだろう。
1969年に引退した金田の投球を、私はリアルタイムには見たことがない。私が知っている野球人としての金田というのは、ロッテの監督時代だ。1973~1978年、私が小学校高学年から中学生にかけてである。ちょっと面白い思い出を書いておこう。私は彼の左腕に触れたことがあるのだ。
彼の監督時代、最後の1年を除いてロッテは仙台を準本拠地とか暫定本拠地とかにしていた。(地元の河北新報は、「本拠地」と書いているが、確か、ホームゲームの半分も仙台ではしていなかったはずだ。正式な本拠地ではなかったのである)。小学生の頃だったか、中学生になっていたか、記憶ははっきりせず、ほとんど取ってあって日記の代わりになるチケットも見つけられないのだが、その時期に1度か2度、県営宮城球場(今の楽天生命パーク宮城)に金田正一率いるロッテの試合を見に行ったことがある。
当時の宮城球場は、今の楽天球場からは想像もできない小さく素朴な「野球場」だった。確かロッテが準本拠地にするということで、初めてナイター用の照明設備も設置されたはずだ(照明が付いたからロッテの本拠地になったのか、ロッテの本拠地になったから照明が付いたのかは知らん)。外野席は芝生で、コンクリート製、衝突時の怪我防止クッションも付いていない外野の壁は、1m半くらいの高さしかなかったと思う。
今にしてみれば信じられないことなのだが、試合が終わると、外野席で観戦していた小中学生くらいの観客(私を含む)が、一斉にグランドに飛び降りて、ダッグアウトに向かってダッシュした。選手を間近に見たり触れたりしたいからである。場内放送や警備員に注意されるということはなく、私は、プロ野球の試合というのはそういうものなのだと思っていた。
記憶はかなり曖昧だが、相当数の少年がダッグアウトに殺到した割に、混乱は起きなかった。みんながダックアウトに入り込んで身動きが取れない、というほどのことはなく、かと言って、ダッグアウト周辺で選手が会話をしたり、一緒に写真を撮ってくれるということもなかった。選手は、少年たちなんかあまり目に入らないかのように、淡々と用具を片付け、淡々と引き上げていった。ダッグアウトに集まった少年たちは、その姿を食い入るように見つめ、近くにいる選手には触れようとした。
たまたま、私の目の前に監督・金田正一がやって来た。当時の私にとっても、既に伝説の大投手である。体つきはいかにもがっしりとしていた。手を伸ばしたら、その左腕に触れた。半袖だったので、肌である。汗をたくさんかいていて、私の手はぬるりと滑った。季節がいつだったかは記憶にない。デーゲームだったが、試合を見ていて暑かったような気はしない。金田はグランドを走り回っていたわけでもない。なのにどうしてこんなに汗をかいているのだろう?と思ったのをよく憶えている。
金田正一の名前は、数々の偉大な記録だけではく、そんな妙な思い出とともにある。合掌。