複線的な社会を!・・・林竹二『教育亡国』をめぐって(4)



 昨日まで見てきたことで、私が林と一致するのは、戦後教育(教育行政)をどう評価するかという点だけであった。実は、もう一つある。それは、1971年に東京の麹町中学校であった内申書事件における学校側の対応についての林のコメントと、林自身が宮城教育大学長時代に、学生運動に対してどう対応したかという点である。詳細は長くなるので書けないが、この二つの事件についての林の言動で共通するのは、問題を起こしている生徒・学生に、形式的な処置をするのではなく、生身でぶつかっていくべきだと考え、実際に行動している点である。彼が自慢げに語る授業実践には何も感心しない私だが、これらの点については、林竹二という教育者の、平凡でありながら立派な本質がよく表れているのではないかと思う。そう、教育とは技術というよりも、裸の人間と人間との直接的なぶつかり合いなのだと思う。私は、『教育亡国』をいう本を読んで、林の硬直した一面的な議論に閉口し、かつて畏れ仰いでいた林竹二とはこんな人だったのか、と幻滅も感じたりしたのだが、それらの出来事に関する林の言動によって救われたという思いは強い。

 しかし、今とりあえず、林に対する違和感について若干の解決を試みるならば、行き着くところ、私の林に対する不満の根源には、彼にとって学校は「絶対」であり、学校に行かないという選択肢が存在していないということがあるように思う。現在の学校の「教育」に林が力説するほど大きな問題があるのならば、何も学校という場所に固執する必要はないではないか、と私などは思う。日本人の特徴として、「みんな同じ」に対する非常に強い指向があるから、学校に行けないとか、学校を辞めるということが、まるで社会全体からドロップアウトするかのような重大問題になるのである。これは形式主義である。学校というのは、「小学」を中心に学ぶ所に過ぎない。学校に在籍していても、卒業したとしても、その意味するところはそれ以上でも以下でもない、と考えることはできないのだろうか?人生のコースを複線化できれば、「差別」「選別」という言葉は、学校でそれが行われているかどうかに関係なく、価値を失うはずだ。

 林は、小学校から高校までを、その質的違いを意識することなく、大雑把にまとめて論じているし、私は、あくまでも高校を中心に考えるから、このような違いが生じるのかも知れない。林の論を、小学校を基準にしたものと考えれば、小学校は義務教育で、誰しも逃げることが出来ないのだから、林の論の正当性は高まる。しかし、小学校の方が、その名の通り、より一層「小学」を丁寧に教えることは必要になるはずなので、やはり林の思いとはかみ合わないようにも思う。

 私も今の日本(宮城県)の学校(特に高校)で、自分の子どもを通わせたい所はないなぁと頭を痛めていて、学校(教育行政)には変革が必要だと思っている。しかし、私にとっての理想の学校とは、おそらく林にとってのそれとは違うだろうし、私にとって理想の学校が実現するよりも、林が理想とする学校が実現する方が何倍も難しい。いや、全ての人が彼の考え方に共鳴したとしてさえ、そんな学校は実現可能であるかどうか分からない。そもそも私には、不都合な要素には目をつぶって、人間の均質性に焦点を当て過ぎる彼の人間観そのものが正しくないと思う。そんな学校の実現を考えるよりは、学校に行く必要はないという選択肢を一般化する方がまだ簡単だ。学校に行かないという選択肢があり、各自が自分の思う道を歩んで、学校で勉強したいと思った時に入ればいい、という状態が保証されているなら、学校はどれほど機能的・発展的な、充実した場所になるだろうかと思う。現在の高校にとって非常に重いのは、始めから勉強する気などない、更には他にもっとやりたいことがあるのに、「高校ぐらいは出なさい」と無理矢理進学させられてくる気の毒な生徒の存在である。40人の教室で、学校に来たり来なかったりする子ども達に学ぶ感動と喜びを体験させ、学校に対する極めて消極的な意識を取り除き、中学校(小学校?)までで身に付けるべきだったのに身に付いていない基礎的事柄(読み書きそろばん)を改めてマスターさせ、社会常識を与え、主体的に哲学的思考をさせるというのは、出来るとすれば教育ではなくマジックである。教師に求めることとしてあまりにも重すぎる。日頃、教員からこのような意見があからさまに出ないのは、それが自己否定につながり、自らの地位と存在価値を脅かすからだろう。権威は常に自分自身を守ろうとするものだ。

 自分の適性に応じて、学校に行くことも含めて、適切に進路を判断するべきだ。そして、学校で学びたいことが生じ、必要性を感じた時には、学校に入ればいい。その時、その人は、どれほど前向きな気持ちで「学ぶ」ことと向き合えることだろうか。他に路線が存在し、学校に行かないことが選択肢の一つに過ぎなくなることは、学校を再生させることにもなるのである。