イランの運転手・・・複線的社会を考えるために



 複線的な社会ということを考える時、私の心に浮かんでくる一つの情景がある。それは、かつてイランを旅行していた時に繰り返し見たものである。私がイランを旅行したのは、1983年11月13日から12月12日までのことで、ずいぶん昔の話なのだが、考える材料としては古いも新しいもない。ただし、私はペルシャ語など、全く出来ないと言ってよいので、観察に基づく考察である。

 産油国であるイランの長距離バスは、安くて快適そのものである。そのバスには、運転手の他に、「弟子」と言うべき少年が必ず乗っている。これは、見ていると同情に値する気の毒な地位である。苛酷な気象・走行条件故に、バスは度々故障するのだが、その時、埃まみれ油まみれになってタイヤやエンジンと格闘するのは彼らである。運転手は、そばで見ていて指示はするが、あまり汚い仕事はしない。順調に走っている時には、運転手に飲み物を出したり、乗客に対して車掌の役割を果たしたりする。

 一方で、運転手の地位は非常に高く見える。バスの運転手になるためには、非常に長く苛酷な徒弟時代があり、その結果として、運転手となった頃には運転手兼整備士と言ってよいほどに車体の隅々まで知り尽くし、精神的にも体力的にも申し分ない状態になっている。その地位が尊敬に値するものであるのは当然であろう。人々の運転手を見る目は、明らかに敬意を帯びている。バスの運転手が、おそらくはほとんど学校に行っていないからといって、決して人間的に劣っていたり、考え方が浅かったりするとは思えない。他の職業についても、同様の事情はあると思われる。

 これは、私にとって特に印象に残ったのがイランだったというだけであって、かつてのトルコでもパキスタンでも中国でも、或いはメキシコでもペルーでも、似たり寄ったりの状況があった。これが、私の言う「複線的社会」の一つの姿だ。ほとんどが発展途上国であるのは、理由のないことではない。先進国は文盲率が低く、文字文化が発達しているからである。文字文化に適応できない人間は「劣等」として見下される。文字文化は、正に「文化」のシンボルとして、人間にとって魔性の魅力を持っているのだろう。そして、文字文化の発達は学校の地位の向上をもたらした。しかし、上の一事をもってしても、それが人間にとって幸せなことであるかどうか、最近、私にはとても疑問なのである。