名古屋の休日・・・JR飯田線に乗る



(9月27日付「第2次月曜プリント」より加筆修正して転載)

 台風一過の23、24日は、また名古屋に行っていた。某高校の文化祭にお呼びがかかったためである。文化祭は23日だけだったが、せっかくの3連休にとんぼ返りはもったいないので、家族に許可をもらい、1日遊ぶことにした。

 その1日、残念ながら(?)、愛人と熱い一日を過ごした、などということはなく、鉄道ライター・山盛洋介(安城学園高校教諭、著書『各駅停車 飯田線』(春夏秋冬叢書、2002年)有り)なる友人の勧めに従い、一人で「JR飯田線」を乗りに行った。

 豊橋に前泊し、24日の早朝6:00に出発して、お目当ての飯田線(もちろん普通列車)を乗り通して諏訪湖に近い長野県岡谷に着いたのが11:55。中央線に乗り換え、恵那という町に住む友人を少しだけ訪ね、金山(名古屋)に戻ったのは夕方16:53。約11時間、388.4Kmの1日旅行であった。

 すばらしい秋晴れだった。山盛氏からもらったイラストマップを手にしていたこともあって、ただひたすら電車に乗っていただけなのに、まったく退屈することなく、山や川の風景を満喫することが出来た。しかし、やはり圧巻は、天竜川源流に沿った深い山間の部分だろう。なぜこんなところに駅があるのだろうというような、近くに人家の見えない駅を途中下車しながら、付近の散策などすればなお楽しかっただろうと思う。山は、空木岳千畳敷カールまでよく見えた駒ヶ岳も美しかったが、何より中央線・塩尻駅からくっきりと見えていた穂高連峰(西穂から北穂まで全て!)に感激した。

 ところで、例えば、「東京に旅行に行く」と言えば、目的地は東京であって、東京までは安く、早く行けた方がよい。しかし、私は、旅行というのは「点」ではなく「線」だと思う(山盛氏もその著書の中で同じことを言っている。私も、このブログでは2001年12月10日の記事で既に指摘している→こちら)。そこに行き着くまでの過程にも、見るべきもの、楽しむべきことはたくさんあるのだ。その考え方を徹底すると、今回の私の1日旅行のように、過程そのものが目的であって、いわゆる目的地は存在しないということになる。

 思えば、このことは人生にも当てはまる。例えば、「期末考査(=目的)」までと思って頑張ることは大切だ。しかし、目的ばかりを意識すると、そこに至るまでの勉強の時間(=過程)は、ただ「我慢」するだけのものになってしまうし、思い通りの結果が出なかった時に、勉強していた時間を「無駄」だったと考えることにもなってしまう。人生は「線」である。一瞬一瞬、その全てを楽しく価値あるものにしようではないか。

 【質問力は生きる力である】

 以前いた学校では、私を「国語の先生」と思っている生徒は少なくて(本当?!)、多くは「雑学の先生」と認めていたような気がする。宮水に来てから、授業中本当に雑談をしなくなった。私語ばかり多くて、人の話を真面目に聞かないので、これなら淡々と授業をしていた方がいい、と思うからである(悪循環かも知れない)。昨年よりも、今年は更に雑談(教養講座)をしない。

 ところが、先々週の木曜日だったか、海洋総合のクラスで、珍しく「雑談」というものをした。もちろん、そんなことを予定して教室に行ったわけではない。テーマは、あるクラスでは「ブラックホールとは何か」、またあるクラスでは「私の病歴」といったものであった。きっかけはよく憶えていないのだが、誰かから質問され、それに答えると、他の誰かから更に突っ込んだ質問が出る、ということが、不思議と複数のクラスで続いたのである。珍しく、私語のあまりない(寝ている人はいた)1時間であった。

 私はけっこう楽しかった。あれだけ質問されると、生徒諸君の脳が活発に動いていることが実感できるのである。昔、ある人が「質問力は生きる力だ」と言っていたが、確かに、質問できる人の脳は活発に動いているし、それが生きる力を生み出すのだろう。

 成長しない(しようとしない)生徒ほど退屈な存在はなく、成長する(しようとする)生徒ほど楽しい存在はない。成長するためには、能動的に脳が動くことが必要で、そのためには、やっていることが「国語」であるか「雑学」であるかはどうでもいい。


(裏面は9月16日付『河北新報』より、測量士の試験に合格した古川工業高校の女子生徒の話)