クラTのドタバタ

(10月16日付け「学年だより№65」より①)

 この「学年だより」は、今やめったに見ることのない「ファックス原稿用紙」というものにシャープペンで書いているのだが、実は今日から、先週までとは違う会社の製品に変わった。同じB4版、4㎜方眼なのに、書き始めてみると違和感がとても大きい。なぜだろう・・・?どうも、芯の滑り、と言うか、書く時の摩擦の具合が微妙に違うような気がする。本当に「微妙に」だ。美術家でも職人でもない私でさえ、そんなことが分かる。人間の感覚の繊細さは感動的だ。すごい!


【(半分だけだったのは残念だけど)できてよかった?体育祭・・・】

 あいにくのグランドコンディションで、たった1日だけの体育祭が、更に半分になってしまったのは残念だった。午後種目だけにエントリーしていた諸君は、一切出番が無かったわけだ。「運」が悪かったというやつであるが、なんとも気の毒だ。
 一方、バレーボールとドッジボールはよく盛り上がり、一人の見物人としては楽しかった。3年生が気合いを入れて臨んでいる中、2年生ながら7組のバレーボール優勝、9組のドッジボール準優勝は立派だった。
 その他、不本意な結果だったというクラスもあるだろうが、勝つことそのものよりも、充実した時間を仲間と過ごすことが目的の行事なので、そんな目的が達成できたかどうかで、体育祭の価値は決まってくる。どうだっただろう?各自自問してみて欲しい。


(余談)
「クラスTシャツ」について考える(終わった後だから言えること・・・?)

 9月になると、いつもクラスTシャツが話題になる。職員室内での評判は頗る悪い。一人一人違う背番号や名前を入れたり(しかも全て創作!)、お金の追加徴収など作業が煩雑で、しかも、着る機会がほとんどない(体育祭だけ?)。保護者の負担を増やしたくないという気持ちもあって、担任としては作らせたくないが、生徒が積極的に動こうとしている時に、水をさすのも憚られる・・・まぁ、こんなところだ。「平居先生、学年主任として禁止して下さいよ」という声もあったが、「私にそんな権限あるわけないでしょ(他のことでは私の言うことなんか聞く気ないくせに=笑)」と、お断り申し上げた。
 結果、各クラスごとに、担任がいろいろな条件を付けたり、生徒に一任したり、各クラスなりのやり方が取られたようである。作るかどうかから始まって、製作の過程でさまざまな意見交換が行われれば、Tシャツそのものよりも、そのことに価値があったと言うべきだろう。
 特筆すべきは1組。2年生でTシャツを作らなかった唯一のクラスだ。おかげで、クラスTシャツを作るかどうかは各クラスの自由なのだ、ということが明確になった。「他が作るからうちも作らなくちゃ」というのは、日本人らしい相対主義(他人の顔色をうかがい、周りに合わせようとする)である。生徒諸君の中にそんな気持ちがあったかどうかは知らないが、何事においても主体性はしっかり持って欲しいと思う。