人間の質と平等・・・林竹二『教育亡国』をめぐって(3)



 憲法第26条に、「第1項:すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。第2項:すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育はこれを無償とする。」とある。いかにも憲法らしい、あいまいな条文であるが、なぜ、普通教育を子供に受けさせることが、国民としての「権利」ではなく「義務」になるのか、という点が、第1の大問題である。それは、民主主義における主権者の育成ということが教育の使命としてあるからである。この点については、私がそう思うだけではなく、世の「学説」でも異論のないところのようだ。

 ところで、民主主義における主権者の育成とは、いったい何をどこまでやれば済む話なのであろうか?それは、様々な情報を入手し、思考の材料とするために必要な「小学」的知識をしっかりと身に付けさせること、また、様々な社会問題について、事実と論点を確実に把握させることであると思う。この部分で、私が(1)で触れた、教育の政治からの独立は非常に重要な意味を帯びる。

 もう一点、憲法の記述で重要なのは、「その能力に応じて」「ひとしく」という部分である。

 林は、「ひとしく」を取り上げ、「違った境遇、能力によって違った教育を与えるというのではないのです。その違った境遇、違った資質を持った子どもに、同じような教育を与えるというのが、憲法が約束した教育なんです。」と書く。我が家の憲法参考書類では、この「ひとしく」の意味を探せなかった。私自身で考えても、林の解釈が正しいのかどうか、よく分からない。単に「全員」の意味かと思うが、「すべて」と意味が重複する。私にはむしろ、「ひとしく」よりも「その能力に応じて」という部分の方が気になる。

 現在、学校は「特別支援学校」を別にすると、職業高校普通高校、クラス数の多寡によって若干の変動はあるが、基本的にすべて同じ基準で運営されている。周知の通り、高校などは成績で輪切りにされた生徒が入ってくるので、偏差値(SS)60の学校も30の学校もあって、これを同一に扱うことには相当な無理がある。私が見るに、成績の低い子ほど、「1対多」の関係に耐えられない。つまり、教員がその子に直接向かい合って言葉を発しないと、自分に対する言葉として受け止められない。だから、SS60以上の生徒の学校では、1対100の授業も成り立つかも知れないが、SS30以下の学校では、1対10でも難しいかも知れない。にもかかわらず、どちらの学校でも1対40となっているのを、私は不公平、すなわち「その能力に応じて」いないと感じる。

 また、成績の低い生徒は勉強に対して悪印象しか持っていないし、集中力も持続力も低かった結果として成績が低いのだから、1日に50分授業を6コマ受けることは難しい。成績の悪い生徒の方が、これから学ぶべきことがたくさんあるから授業も多くすべきだという主張があったとしても、決して筋が通っていないわけではないが、現実的ではない。

 だから、「能力に応じ」れば、1教室当たりの生徒の数も、授業時数も、一律というわけにはいかず、むしろそこを配慮する必要があると読むべきだと思われる。自ずから、教育内容が同じとはいかない。

 私が、成績が極端なまでに悪い生徒を見ていて思うのは、彼らは文字によって情報をやりとりするのが非常に苦手だということだ。人間にはもともと文字文化がなかったわけだから、彼らは人間が文字を持たなかった時代に止まっている存在に思える。彼らは、文字の扱いをせっせと教え、例えば一時的に一定の漢字が読めるようになり、言葉の意味を憶えたとしても、それを使いこなして新たに自分の世界を広げていくということが難しいように見える。いつまでも、「それはそれ」でしかないのだ。「まだできない」のではなく、「できない」ようなのだ。また、知ることの面白さ(知的興奮)というものを感じることも少ないように思う。これは、今までにそのような体験がないとか、そういうことが出来る水準に達していないとかいうのではなく、人間には知的興奮中枢とも言うべきものの働き鈍い人というのがいるのではないかということである。なぜなら、どう考えても小学校低学年レベルの言葉だけを使って、何かを解説したとして、「分かった?」「分かったよ!」「どう思った?」「え?(だからどうしたの?)」ということをよく経験するからである。

 と書けば、いかにも彼らをバカにしているようだが、必ずしもそうとは言えない。彼らは、文字に向って何かをすれば極端に劣って見えるが、会話をするとその差が縮まり、作業をしながら、体で何かを覚えるということについては、むしろ遜色のない能力を発揮して感心させられることも少なくない。また、人格的に立派だと言える生徒も少なくないのである。彼らは、ひとえに文字情報が苦手なのであり、学びのプロセスが違うだけなのではないか?

 ところが、世の中では学校に行かないことが困った問題として扱われるのと同様、文字情報が操作できない者は「劣っている」と判断されてしまう。当然であろう。なぜなら、現在の教育システムを作り、世の中で中心となっている人々は、文字情報に強い人たちばかりで、世の中はその人達にとって合理的に作られているからである。

 私がこのような二つの人間のタイプが存在することを認める時、「ひとしく」「能力に応じて」とは、文字情報中心の教育に偏ることなく、まさにそれら二つのタイプに応じた「違う」教育のシステムがそれぞれ用意されるべきだという風に考える。現在はどうか知らないが、かつてのドイツで行われていたマイスター制度は、このような人間観に立って合理的である。

 林が自慢げに語る「人間」についての授業は、文字情報をほとんど廃して簡単な板書に止め、写真を見せながら、彼が語りかけることを中心に組み立てられている(例えば、彼の湊川高校における授業記録が『教育の再生をもとめて』(筑摩書房、1977年)にある。林の一方的な語りが非常に長く、私が現在勤務している高校では、初対面の人間に対する好奇心に頼らなければ、決して成り立つことはないと思う。)。だから、既に書いた通り、この授業が生徒によって発展させられる可能性は少ないのである。ただし、人間とは何かという疑問を、生徒の心に植え付けたことの意味はあるだろう。もしそれがほとんど全ての生徒であり、彼らがそのような疑問が生じたことによって、それを内圧として、「小学」をも身に付けようという能動的な姿勢が生まれ、自ら「小学」を身に付けるなら、林が望むような学校作りも可能になるかも知れない。しかし、それはほとんど現実となる可能性を想像すら出来ないほどの「奇跡」である。

 林の授業を受けて書かれた作文は、林が評価するような「きらめき」は確かに感じられるものの、「文字の読み書き」というレベルで見ると稚拙極まりないものである。林はそのようなことを一切問題にしない。おそらく林にとっては表現など些末なことに過ぎず、そんなことをとやかく言うのは形式主義者に過ぎないのだろう。しかし、内容はもとより大切だが、正しく的確に表現できるようにすることも、その後の成長や社会的生活のためには大切なことだ。私には林の見方が一面的であり、それ故に成り立つ論理であると思われる。(つづく)