教員の働き方改革(2)・・・部活動のことも

 昨日、どうして残業の話を書いたかというと、部活動の問題に持って行きたかったからである。教員の残業を考えた場合、真っ先に問題視されるべきは部活だからだ。これは断然言うまでもないことである。
 残業時間を月に45時間に抑えるということは、それがたとえ授業日に1日2時間以上の残業は容認するという点で問題があるとしても、土日を中心として授業以外の活動が大きく制限されることだけは間違いない。私は、もともとが学校とはいかなる場所であるべきかという理念から出発したのではなく、残業を減らすために考えた結果として授業しか残せない、であるとしても、それは非常に歓迎すべきことだと思っている。今の学校は、「授業が第一」とタテマエで言いつつ、授業なんてまったく大切にされていないという現実があるのである。
 これは、学校の中で制度的に授業が大切にされていないというだけではない。それの反映として、教員の意識の中でも授業の位置づけは決して高くない。他教科のことは知らず、国語などという教科の中だけを見ていても、読み書き能力がさほど高くない教員などというのはたくさんいる。にもかかわらず、そんな自覚などはなく、したがって自分自身が勉強することについても、さほど熱心ではない教員は少なくない。私は、そんな教員が全面的に悪いとは思わない。学校がそんな場所になってしまっているからである。
 部活動が学校の中で決して偉い存在ではないことをはっきりさせるためには、まず「公認欠席」を廃止しなければならない。学校行事であろうが、定期考査であろうが、部活のイベントが校外であるとなれば、生徒はそちらを優先させてよく、そのために学校を休んでも書類上「欠席」扱いにしない、という制度だ。
 最近、部活関係のニュースで気になったのは、国際バスケットボール連盟が、日本の高校のバスケットボール部に在籍している留学生について、原則禁止としている「18歳未満のプレー目的での国際移籍」に当たると、日本バスケットボール協会に通達していたというものである(1月19日朝日新聞)。記事では、「教育もしているのに」という関係者の戸惑いの声も拾っているが、本末、主従の問題である。スポーツ選手として留学させておいて「教育もしている」というのと、勉強のために留学してきて、課外でスポーツもしているというのはまったく違う。いくら勉強もさせているとは言っても、全国で戦えるだけのスポーツ能力がなければ、その生徒を受け入れていない、という例は多いだろう。もちろん、バスケットボールには限らず、むしろ陸上競技の世界で、そんな生徒はいくらでも目に付く。高校のバスケットボール部に在籍している留学生が「50人を超えている」という記事を読んで、「え!本当にそれだけ?」と思うのは、私だけではないだろう。
 また、これは毎年毎年のことだが、1月の授業が始まるタイミングで、昨年のドラフト会議で指名された高校球児入寮のニュースが流れる。これまた毎年毎年、私はこういう報道止めてくれないかなぁ、と苦虫をかみつぶしている。いかにも年が明けたら3年生の授業なんて出なくてもいいです、そんなものどうでもいいんですから、と世間に公言し、マスコミが認めているように見える。
 私は、多くの高校生が、というならともかく、ごく一部の特殊な生徒が、そのような脱法的な行動を取ることについては、あまり目くじらを立てたくないと思う。だが、そのための条件は、こっそりやってくれること、だ。
 最近話題の10代前半の卓球選手などというのも、学校との関係でどのような生活をしているのだろうか、と疑問に思う。
 スポーツというのはとにかく恐ろしいものである。結果があまりにもはっきり見えるからである。しかも、すぐに、だ。ごく短時間の博打が延々と繰り返されているようなもので、そうして人々の興奮を高めてゆく。勉強などという、得体の知れないもの、すなわち、何が正解か分からない問題にも数限りなくぶつからなければならないのに、そこへ向けて忍耐が要求されるといったものに比べれば、甚だ分かりやすいのである。世の中はそんなに分かりやすいものではないのに・・・。
 政府なり、県教委が本気で月45時間を守らせようと思えば、部活動の居場所はなくなってゆく。学校が本来の機能を健全に取り戻すのはいい。今までが間違いでありすぎたのだ。
 だが、ふたつの心配が残る。ひとつは、競技力強化のために学校を利用してきた「競技団体」というものが、なりふり構わぬ手段で巻き返しを図ってくるだろう、というものだ。そしてもうひとつは、部活動が学校の管理から離れ、地域の人の手に移ると、今以上に際限のない活動が行われるようになるのでは?という心配だ。これはスポーツ少年団を見ているとよく分かる。
 学校は生活の場ではなく、教科教育の場だと割り切る。何もかも丸抱えにするから、多方面に責任も発生するし、世間が過剰に学校に期待し、学校(高校)を辞めた人間は、まるで大きな問題があるかのような目で見られるのである。何かにつけて学校に言えばいい、学校がなんとかしてくれると思う。それが、日本人的な甘えを助長しても行く。過渡的には様々な問題を引き起こすだろうが、議論の高まりをきっかけに、学校の役割をとことん問い直すことは歓迎すべきことである。(完)