運動部活動はどうあるべきか(1)



 昨日の続きなのだが、なにしろ話題が大きいので、即席で話を上手く整理する自信がない。草稿だと思って読んでもらえるといい。必要有りと感じれば、いずれ大改訂するかも知れない。なお、これ以前の私による最もまとまった部活動論は、こちらである。一読してみて欲しい。

 さて、私がとても驚いたのは、『戦後と現在』が中学校を中心としつつ、中学高校の運動部活動を論じていたのに対して、『教育学入門』においては小学校からが考察の対象となっており、それらを考える上で必要な場合、大学の運動部にも言及が見られるという点だ。私は、小学校の「部活動」というものを知らない。うちの娘は、「クラブ」というものに行くことがあるが、学期に一度程度のことである。スポーツ少年団は、正に「過熱」だが、それを問題にしているのかどうか・・・?ともかく、小学校からが考察の対象となっているのである。『戦後と現在』を読んだ時には、部活動が中学・高校教員の職務であることや、部活動の予定が校内のあらゆる活動に優先するという学校内部の歪み(本末転倒)に問題意識を持っていた私だが、最近は、小学校のスポーツ少年団という組織の恐るべき実態に対する問題意識がそれを上回るようになっている(→参考)。私が『教育学入門』を強い関心を持って読んだ理由に、このこともある。

 『教育学入門』を読み、明治以降の運動部の歴史をたどってみてはっきりするのは、それが文科省を中心とする教育側と、競技団体というスポーツ側の対立、駆け引きである、ということだ。特に、発達段階に応じて対外試合をどこまで認めるかという点に、それが象徴的に表れている。

 つまり、勝利至上主義の暴走を危惧し、発達段階に応じた健全な成長を促すために、規模の大きな対外試合を行うことは好ましくないという姿勢を取っていた文科省に対し、国体やオリンピックといった大きな大会で優れた成績を収めるためには、対外試合への参加制限の撤廃こそが望ましいとする競技団体の主張が勝利を収めていく図式だ。その結果、現状では、有能な低年齢層が全国、あるいは国際大会に出場することも当たり前、それが批判されるどころか、むしろ、年齢が低ければ低いほど、ヒーローとしてその出場・活躍がもてはやされるのだが、もはや誰も、そんな思想的な確執の末に現状があるなんて思いを致すことはない。

 神谷氏は、それを批判的に見つつ、文科省が、運動部活動が何のためにあるのかを明確にしなかったことが敗因であると指摘する。だが、私はそれ以前の問題として、学校とは何をする場所か、学校はどこまでの範囲を引き受けるのか、という哲学の欠如があると思っている。その前提が確立されてこそ、運動部活動は何のためにあるのか、という議論が答えを持ちうる。だが、それができていれば、勝利至上主義、運動部活動の過熱というのが止められたかというと、必ずしもそうではないだろう。

 『教育学入門』でも『戦後と現在』でも行われていないが、私は、少なくとも、今の過熱した運動部やスポーツ少年団の指導者が、どのような経歴を持ち、どのような意識で活動に取り組んでいるかは、詳細に調査した方がいいと思っている。おそらくは、自分が多くのものを得てきたスポーツ分野で、若者にも同様の思いをさせてあげたいという気持ち(の人)が半分、そして、自分が実現できなかった夢(甲子園出場、全国制覇など)を若者に托し、指導者として実現させたいという気持ち(の人)が半分、こんなところだろう。いずれにしても、過熱したスポーツ活動に疑問を持たず、その中で喜びを得たり、自分の存在感を発揮させてきた人たちによってのみ運動部活動が支えられているとしたら、運動部が内部から変革するなどということはあり得ない。

 私は以前、教員の本来業務は何かという問題から、運動部活動は社会体育化すべきだと考えていた。部活動を学校内部に置くかどうかという問題の歴史的経緯も、『教育学入門』ではたどられている。それは、かつての私と同様、教員の勤務条件などとの関係で主張されてきたらしい。だが、神谷氏が引く1971年の日教組第20次全国教研における分科会発言「(平居注:部活動を)雑務だからといって社会体育へ移行させることは、今日の状況からは、敵に子どもを渡すことにならないか」は、ある重要な問題に気付かせてくれる。

 ここで発言者が「敵」と言っているのは、学校外のスポーツ団体指導者であるが、それをなぜ「敵」というかと言えば、彼らが勝利至上主義に染め上げられているからに違いない。だとすれば、運動部が学校の管理下外に移ることで、教員の負担問題や学校の責任問題こそ解決するかも知れないが、子どもの健全な成長という観点で見れば、更に状況を悪化させるということになる。子どもの健全な成長ということを主眼とするなら、無理を重ねてでも、学校は運動部活動を手放さない方がいい。大切なのは子どもたちのスポーツ活動の面倒を学校が見るか社会が見るか、ではなく、子どもの健全な成長のために運動部(サークル)活動はどうあるべきかという社会全体による議論である。そして、校内の組織であるか校外の組織であるかに関係なく、子どもによるあらゆるスポーツ団体が、その結論には従うべきなのである。(続く)


補)『戦後と現在』も『教育学入門』も、タイトルに「運動部活動」という言葉を含む。何となく分からないでもないが、わざわざ「運動部」という縛りをかけない方がいい。吹奏楽部などは、運動部顔負けの「過熱」がたびたび問題となるし、勝利至上主義→過熱以外にも、部活動には多くの問題があって、その中には運動部と文化部に共通するものも多いからである。私が時に、「運動部」ではなく「部活動」と書くのは、運動部だけの問題ではないと思う場面である。