この3日ほどで、神谷拓『運動部活動の教育学入門〜歴史とのダイアローグ』(2015年12月、大修館書店。以下『教育学入門』と略)という本を2回読んだ。この類いの本としては、一昨年に、中澤篤史『運動部活動の戦後と現在〜なぜスポーツは学校教育に結び付けられるのか』(2014年3月、青弓社。以下『戦後と現在』と略)という本を読んでいたので、『教育学入門』を読みながら、そちらではどう書いていたかな、などと気になることも多く、そちらも読み直しながらの3日間であった。
『戦後と現在』を、私はこのブログで手ひどくこき下ろした(→こちら)。今回読み直してみて、そこまでやっつける必要があったかな、と少し申し訳なく思ったが、その際、特に私が批判したのが、「本書は運動部活動が良いか悪いかを評価したりはしないし、運動部活動に潜む問題を告発したり解決策を提示したりもしない、また、運動部活動とは本来こうあるべきだといった主張もしない」という、極めて傍観者的で無責任なフレーズであった。
一方、神谷氏は『教育学入門』に次のように書く。
「本書では、毎回、特定の制度、主張、取り組みを紹介しながら、私が解説・批評するという形で進めていきたいと思っています。同時に、私は自分の意見をできるだけ明確に言い切りたいと思います。今、実践に取り組んでいたり、これから研究しようという読者は、本書で紹介する引用・参考文献にも手を伸ばして、私の主張を批判するつもりで読んでください。その積み重ねによって、研究の足場(自分の立場)が明確になってくるはずです。」
この違いは鮮やかだ。そして、この生々しい問題意識と、潔い姿勢こそが、あれこれと論点や情報の不足を含みつつも、この本を魅力的なものにしている要因だと思う。
この本は、『体育科教育』という雑誌に、2011年4月〜2015年3月、48回にわたって連載された記事をまとめ、加筆・訂正したものである。「加筆・訂正」とは言っても、引用された図表等は、掲載当時のデータをそのままにしてあるので、さほど大きなものではないだろう。従って、『戦後と現在』を批判的に検討したような記述は見られない(中澤氏の論文は注で言及)。また、『戦後と現在』が文献によって歴史をたどるとともに、若干のフィールドワークによって現場の実態を考察しようとしているのに対して、『教育学入門』は、文献に基づく考察をもっぱらとする。
文献による考察だけではなく、今現在、学校内で部活動の実態がどうなっているのかを検討することは非常に重要である。だが、『戦後と現在』はそれをしながらも不徹底だったために、何となくモヤモヤしたものが残ったのに対して、『教育学入門』は中途半端なことをせず、文献学に徹したことと、歴史から学ぶ、自分の意思は明確に示すという二つの態度によって、フィールドワークの欠如を上回る価値を感じさせるものになっている。
著者自身は、この本の意義を次の3点に整理している。
1、運動部活動について解説した入門書であり、分かりやすさを心がけた。
2、運動部活動の歴史とどのように向き合うのか、歴史とのダイアローグを重視している。
3、「運動部活動の教育学」という新しい分野の学問を提示している。
確かに、『教育学入門』は、書き方が本当に分かりやすく工夫されている。文章そのものが平易である上、もともと雑誌連載で、1回当たりの分量が今回刊行された単行本で5〜6ページ、単行本化の段階でもその枠は残されているので、息切れがせず、どこでも立ち止まることが出来る。各回(章に相当)の冒頭には、その回の内容を要約したようなリードが付けられているので、簡単な予習をしてから読み進めることが出来る。雑誌連載であるために、各回の内容的な重複(同じことが繰り返し出てくる)は大きいが、それがいちいち、それ以前のどこで言及されたか明示してあるので、絶えず復習しながら読み進める格好になり、しつこいと言うよりは分かりやすい。そしてもう一度繰り返すが、著者は自分の見解をはっきりと示しつつ、人の考察と批判とを求めている。
これは、学者の姿勢としては立派だと思う。こうして、学問が象牙の塔に閉じこもるのではなく、現実に力を持てるような方向へ向けて努力することこそ必要であろう。では、この本を読んで私が何を学び、考えたのか・・・。(続く)