やむにやまれぬ告別式



 昨日は、組合の会議があって、そちらに出る予定だったにもかかわらず、急遽キャンセルし、知人の告別式に参列するために岩沼市まで行っていた。亡くなったのはNさんという7年前に死んだ父の同僚である。

 Nさんと父との縁は深かった。父よりも7歳年下なのだが、同じ三重県出身で、同じ高校を卒業して同じ会社に入り、配属部署から肩書きに至るまで、ほとんど忠実に父の後をたどり、そして10日あまり前に父が死んだのと同じ年齢(77歳)で亡くなった。登山を始めとして、趣味の世界でも父と大きく重なり合っていた。それだけに、父が、脳溢血で倒れた後、7年近い寝たきり生活の後で死んだのに対して、Nさんが死の前日まで元気で、突然亡くなったという違いは鮮やかに感じられた。

 私が昨日の告別式に出向いたのは、父とは関係なく、Nさんが大好きだったからである。その穏やかで若々しい人柄も魅力的だったが、趣味や好奇心の方向性で、私もNさんと共通する部分を多く持っている。

 私は物心付く前からNさんに可愛がってもらっていたらしい。Nさんについての最初の記憶は、私が昆虫採集に熱中し始めていた小学校低学年の頃だったと思う。父に連れられてNさんのお宅を訪ねた。Nさんは、自ら採集した数多くの蝶を見事な標本にしておられた。父は、私が昆虫採集に興味を持ち始めたのを見て、それを見せるために私をNさん宅に連れて行ったのだろうと思う。この点は父と全然似ていないのだが、Nさんはいわゆる「凝り性」で、しかも緻密な手作業が非常に上手だった。

 定年退職後は、年に1〜2度、世界の辺境というような所に出掛けては、花を中心とする膨大な写真を撮り、帰国後、丹念に整理してホームページで公開しておられた。このホームページがまた、かつての蝶の標本と同様、たいへん凝った見事なものである(→「こちら」)。

 父は愛知で定年を迎えると、かつての勤務地である宮城県に住むようになった。Nさんも愛知で定年を迎えた後、宮城県に戻って来られた。その頃から、毎年末に、その年に行った旅行の写真と、それによって作ったカレンダーと、年越しそばを持って父のもとを訪ねてくださるようになった。それは、父が死んだ後も続いた。私は毎年、その日を楽しみにしていた。

 一昨年の末、例によってNさんが訪ねてきてくださった際、母がその気遣いに遠慮をして、「来て下さるのは嬉しいが、物は持ってこないでください」というようなことを言った。そして昨年末、Nさんは来られなかった。

 私はNさんが好きだったが、「Nさんはあくまでも父の同僚(部下?)であるNさん」という枠組みから自由になれなかった。Nさんは父の後輩でもあったため、会社の外で何かをする時には、それがたとえ遊びであったとしても、Nさんが父の所に来るのが当然で、その逆は蝶の標本の時以外に記憶が無い。父は先輩風を吹かせるような人間ではなかったが、父とNさんとの関係を引き摺った私は、父が死んだ後も、自分からNさんを訪ねることが出来なかった。どうも人間関係は難しい。昨年末お会いできなかっただけに、寂しく、なんだか心残りだ。

 10日ほど前、用事があって母に電話をした時、Nさんが亡くなったことを知らされた。エチオピアに旅行に行き、朝、湖に浮いているのが同じツアーに参加していた人によって発見されたのだという。心臓発作か、写真を撮りに行って足を滑らせたかは分からないが、他人が関わる事件の可能性はないようだった。亡くなってから、告別式までに時間がかかったのは、そのような事情によっている。母に「告別式の日取りが決まったら教えて欲しい」と言うと、母は「わざわざ来なくてもいいわよ」と言った。だが、私は行った。

 形式的な儀礼ではなく、やむにやまれぬ気持ちで告別式に出たというのは、東日本大震災の時以来だ。それでも、いい人生だったなと思うし、Nさんらしい死に方だったなとも思う。ホームページはもう一度、隅から隅まで見直してみよう。合掌