類例の増加は、比類の無さを確かめさせる



 3月16日、もう15年も昔の卒業生から電話がかかってきて、石巻市内で酒を飲んだ。同級生が5人集まり、今の生活やら高校時代の思い出やら、他の同級生の近況やらを話していた時、3年生の時のクラスで、Hだけが震災で死んだ、という話になった。

 私は、この時までHが死んだことを知らなかった。もちろん、石巻市内で約4000人の人が死んだのだから、卒業生に死者がいても何ら異とするに足りない。私は早くから卒業生の安否は気にしていたが、新聞で死亡者名を見ても、字が小さくてなかなか集中できないし、よほど珍しい名前でなければ、同姓同名が紛らわしくて真剣に見ていられなかった。卒業生と会ったり、連絡を取る機会があれば、他の生徒の消息は尋ねていたが、Hについては1年以上にわたって、私のアンテナに引っ掛かって来なかったのだ。

 私としても、石巻高校で最初に受け持った3年生でもあり、生徒は個性派揃いだったし、保護者にもたいへん大事にしてもらったクラスなので、思い出はたくさんあった。どう考えても真面目とは言えず、ルーズで少し斜に構えていたようなHだったが、卒業式の時に、私は彼からずいぶん高級なネクタイをもらって驚いた。当然、親がHに持たせたのだろうと思って母親にお礼を言うと、母親がそのことを知らずに驚いたので、私が更に驚いたということもあった。

 Hについての噂は、卒業後数年は届いていたが、その後聞くことはなくなった。卒業後、直接会ったこともない。津波に流されはしないまでも、床上1mくらいは浸水したと思われるHの実家が、卒業時と同じ場所にあり、電話が通じるかどうかも分からなかった。しかし、何となく私はHの霊前に手をあわせに行かなければ気が済まないような気持ちになって、23日に電話をした。幸い電話口には母親が出て、私のことをよく覚えてくれていた。私は、24日午前に、Hにもらった赤いネクタイを締めて家を訪ねた。ひっそりと母親だけがいた。

 最初から、母親の話を聞く事が供養だとも思っていたし、それは長くなるだろうとも思っていたので、午前中いっぱいいるつもりで行ったところ、実際、1時間半あまりに渡って、卒業後のHの生活や、震災時のことについていろいろな話を聞くことになった。時に慟哭して言葉が出ない。まるで、亡くなってからせいぜい1週間か10日しか経っていないみたいだ。3人兄弟の真ん中、彼だけが震災の犠牲になった。2人生き残ったからいいというものでないことは、私にも重々分かっているつもりだったが、思っていたよりはるかに母親の悲しみは新しく激しかった。

 話を聞きながら、小林秀雄のこんな言葉が頭に浮かんだ。


「子供を失った母親に、世の中には同じ様な母親が数限りなくいたと語ってみても無駄だろう。類例の増加は、寧ろ一事件の比類の無さをいよいよ確かめさせるに過ぎまい。掛け替えのない一事件が、母親の掛け替えのない悲しみに釣り合っている。」(『ドストエフスキーの生活・序「歴史について」』)


 まさしくその通りだ。石巻だけで4000人もの死者がいる。被災地全体では2万人にもなる。そんなことは、Hが死んだという事実をいささかも軽くしない。むしろ、にもかかわらずHを失った悲しみが大きいことによって、その死の重さはますます際だつ。「類例の増加は、寧ろ一事件の比類の無さをいよいよ確かめさせる」のである。