知らない「卒業生」の喜び



(1月10日付学級通信より)

 どこに旅行に行くでもなく、石巻と仙台・名取の実家を行ったり来たりしているうちに休みが終わってしまった。

 (今年の年賀状コピー貼付=ブログの1月1日記事と同じ)

 今年の年賀状はこの通り。諸君も震災の影響で、家にいろいろな事情を抱えているので、気にさわれば申し訳ないと思うが、「ご挨拶」なので、あえてそのまま載せることにした。下の方の手書きの部分(=1月1日記事、私の書き添えとほぼ同じ)も、これが典型的文例だった、ということだ。

 ところで、1月2日の夜、石巻市内の某飲食店で開かれた前々任高の部活のOB会に出席した。延々4時間に及ぶ会が終わって、店を出ようとした時、「平居先生!!」と呼び止められた。見覚えのない30歳くらいの男が3人で酒を飲んでいる。当然、卒業生なのだろうが、どうしても人相に心当たりがない。卒業生の顔を忘れるというのは実に申し訳ない話であって、街でこうして声をかけられた時、「君、誰だっけ?」と尋ねるのは、何とも気が咎めるものである。しかし、私は3人の中の誰1人として思い出せないので、仕方なく、「誰だっけ?」と尋ねた。すると驚いたことに、私が一度も授業や部活で関わったことのない卒業生であった(課外で私の授業を受けたことがあるという人はいた)。在学中に自分が受け持ったことのない生徒から声をかけられるのというのは、非常に珍しい。私が知らなかったのも無理はない。少し安心した。交ぜてもらって飲む。

 3人とも立派な社会人であった。そのうちの1人は、現在県内の某私立高校で教員をしているという。そして、「どうしても石巻の高校の先生になって、地元のために頑張りたいので、今年は県の採用試験を受けます」と熱く語る。彼らの純粋さ、明るさが心地よかった。卒業生とは言っても、「知らなかった」と言うことが許される人たちだっただけに、いい若者と出会えたという新鮮で爽やかな感動があった。さほど長い時間ではなかったが、冬休みで最も愉快な一時であった。


【より一層の背伸びを!!】

 (昨年最後のHRで生徒が書いた「入学後の9ヶ月を振り返って+来年の抱負」作文よりいくつかを引用し、私がコメントをつけた。実際の月曜プリントの編集とは違う体裁となるが、せっかくなので「記念」に震災がらみのものをいくつか紹介しておく。)

・今年は早かったのか遅かったのかよくわからない1年でした。被災して家が無くなり、町が無くなり、とにかく普通からははるかに遠い1年でした。最初は「最悪」という言葉ばかりが頭の中をかけめぐっていましたが、自分にとってはすごく良いこともあり、言い方はおかしいけれど「最悪で最高の1年」でした。学校はクラスですごくうるさく迷惑することもあるけれど、なんとなく良いクラスです。来年は「普通より少し良い1年」になればいいと思います。

・大変な1年で色々あった。特に地震は最悪だった。でも、芸能人とかに会えたからよかった。私は1年間担任をなめつづけた。もし進級できたら勉強がんばりたい。

・今年1年を振り返って思うことは、地震が来て、津波で宮水が被災した時に、もう学校には行くことができないのではないかと思うことがありましたが、ちゃんと学校に行くことができるようになったのでよかった。来年はちゃんとした生活をしていきたい。

・今年は震災があり、家族の大切さや人の優しさを改めて知ることが出来ました。自分は野球に集中してやることができ、来年は勉強も力を入れてがんばりたい。

・中学の方が楽しいなあと思いました。でも、高校も楽しいなあと思いつつ、もう1回津波来ないかなぁとか考えつつ、ぼんやりと1年が過ぎていきそうです。引っ越した家にもなれてきました。でも、今までの家の方がよかったなぁと毎日悲しんでいます。月食がきれいでした。

・今年は震災から始まるという最悪な1年でした。プレハブから始まり、不便なことばかりでしたが、今ではなれました。全体的には少しずつ復興していますが、まだまだ完全ではありません。今年はほとんどいい事がなかった年だったので、来年はいい年になりたいです。

 他のものも含めて、なかなかユニークで面白いものが多かった。全ては紹介できないが、思いが重なることも多いと思う。とにかく、もっともっと背伸びして成長してくれ。


(裏面)1月4日付『河北新報』より、「リヤカーの旅、喜びいっぱい 一歩ずつ世界めぐり4万6000キロ」(=冒険家・永瀬忠志氏について)を引用。コメントなし。