下降線と上昇線・・・R・シュトラウス「薔薇の騎士」に寄せて



 正月に、ほんの数時間ながら、自宅で一人の時間が取れた。別に家族が邪魔だというわけではないが、音楽を聴くにはめっぽう不自由な環境なので、一人になると遠慮無く音楽が聴けるのはよい。

 リヒャルト・シュトラウスの歌劇「薔薇の騎士」を久しぶりで聴くことにした。昨年末にテレビの番組表を見ていて、2011年が「薔薇の騎士」が初演されてから100年目に当たることを知ったからである。オペラは私の守備範囲ではないが、「薔薇の騎士」は好きな曲である。ただ、なにしろ3時間以上かかるので、日頃は20分あまりの「組曲」で聴いたつもりになることが多い。この「組曲」も秀逸。

 「薔薇の騎士」がなぜいいかと言うと、R・シュトラウスという管弦楽法の天才ならではの豊麗無比なオーケストラの響き、非常にメロディーが明瞭で甘美であるにもかかわらず軽薄さのない上品優雅な音楽といったものもさることながら、やはり何と言っても、あの最後の3重唱があるからである。

 元帥夫人は若いオクタヴィアンと愛人関係にある。元帥夫人の従兄弟オックス男爵が裕福な商人ファニナルの娘ゾフィーと結婚することになり、結納の印である「銀の薔薇」をゾフィーに届ける使者を誰にするか、元帥夫人に相談したところ、元帥夫人はほんの気まぐれでオクタヴィアンを推薦してしまう。オクタヴィアンはゾフィーのもとに「銀の薔薇」を届けるが、二人はお互いに一目で恋に落ちる。そこに現れたオックス男爵の下品で傍若無人な態度を嫌悪したオクタヴィアンとゾフィーは、いろいろな人の力を借りて、オックス男爵から逃れようとする。最後に、元帥夫人が登場したところで、オックス男爵は自分の負けに気付き、その場に居合わせた多くの人々とともに去ってゆく。

 ゾフィーはオックス男爵の言葉から、オクタヴィアンが元帥夫人の愛人であったことを悟りショックを受け、元帥夫人は二人がともに愛し始めていることに気付き、その後の自分の身の処し方に気付く。ここからが3重唱の場面。つまり、元帥夫人は「私の元から彼が去ってゆくのは覚悟していたが、それは思っていたよりも早かった。彼はあの娘と幸福になるでしょう」、オクタヴィアンは「何かが来て、何かが起こった。一体これは何なのだろう?確かに分かることは、私が彼女を愛しているということ」、ゾフィーは「私は敬虔で、不安で、何か不浄な気持ちでもある。元帥夫人にひざまずきたいとも思うし、何かの仕打ちを加えたいとも思う。それでも、私に分かることは、私が彼を愛しているということ」と歌う。

 この場面での元帥夫人の歌は、第1幕後半の元帥夫人の手鏡を見つめながらの独り言と深く関係する。その独り言があったからこそ、3重唱の元帥夫人の歌には、愛する若者をそれにふさわしい娘に取られてしまうという嘆きの他に、老いゆく自分についての哀しみが含まれていることが分かる(R・シュトラウス自身によれば、「元帥夫人」は、その呼称とは裏腹に、まだ32歳になっていないのだが、20歳になるかならぬかの若い二人に比べれば、もはや老いを意識せざるを得ない)。つまり、この3重唱がなぜこれほどまでに感動的で、おそらく私が思うだけではなく、世間一般の評価としても数限りないオペラの中の代表的名場面であり得るかといえば、ある役割を終えた元帥夫人の下降線と言うべき感情と、若い二人の恋が成就へと向う上昇線とが絡み合い、更に、自分が愛することになった男が、目の前にいる女の愛人であったことによるゾフィーのわだかまりが、R・シュトラウスの音楽によって言葉以上の複雑微妙な陰影を作っているからなのである。

 いくら濃密なドラマがあるとは言え、R・シュトラウスも、この陰影に富む、悪く言えば分裂した3重唱で歌劇を締めくくるわけにはいかなかったのだろう。3重唱から元帥夫人が脱落し、歌はそのままオクタヴィアンとゾフィーの2重唱へと流れる。感情は高まるにもかかわらず、通常の歌劇とは逆に、終わりに向ってどんどん舞台は簡素で静かになってゆく。オクタヴィアンとゾフィーも遂に舞台から消えると、一瞬、小姓が舞台に現れ、ゾフィーが落としたハンカチを拾って去って行く。高まった感情は余韻に含まれることでより強く印象づけられる。小姓の登場というアクセントも心憎い。よく出来た劇であり音楽だと思う。


(補)上で、私の書き方は、台本も音楽もR・シュトラウスが書いたかのようになっているが、もちろん、それは正しくない。「薔薇の騎士」の台本作者はH・ホフマンスタールである。彼は、「エレクトラ」から「アラベラ」まで、R・シュトラウスと6本の歌劇を作り、「オペラ史上空前の黄金コンビ」と称される。しかし、R・シュトラウスとの間には数百の書簡が交わされ、ホフマンスタールの案にR・シュトラウスは微に入り細に入り注文をつけ、書きかえさせていたことが知られている。「薔薇の騎士」で、特に大きな変更を求めた第2幕については、岡田暁生『薔薇の騎士の夢』(1997年、春秋社)に詳しい分析があり、第3幕の最終場面についても、Rシュトラウスの大幅な変更要求のあったことが山田由美子『第三帝国のR・シュトラウス』(2004年、世界思想社)に指摘されているが、私は書簡集(『オペラ「薔薇の騎士」誕生の秘密─R・シュトラウスホフマンスタール往復書簡集』1999年、河出書房新社)を未見なので、詳細は分からない。いずれにしても、R・シュトラウスは、台本によほど納得しないと曲をつけなかった人であることだけは確かである。