今日は冷たい風の吹く寒い一日だった。午前中、例によって牧山に走りに行ったら、ところどころではあるが、うっすらと雪が積もっていた。真っ青な青空が広がっているのに、山中で会った人はたった二人。これだけ寒ければ、まぁ、仕方がない。
さて、一昨日の朝日新聞社説は、教員の確保に関する問題を取り上げていた。見出しは「弥縫策より本質議論を」となっている。ふ~ん、朝日は「本質」に関してどのような問題提起をするのだろうか?と関心を持って読み始め、最後まで読んだところですこしがっかりしてしまった。
朝日の言う「弥縫策」とは、教員採用試験の前倒しである。一方、「本質」を何と考えているかは読み取れなかった。「授業の準備に時間をかけ、子どもと十分に向き合うには、教員やスクールソーシャルワーカーらの増員が不可欠だ。財源確保に向けた議論を急がなければならない」とし、「教える内容を精査し、適正な授業時数を設定るすること」の必要性にも触れる。だが、これらが「本質」に関わる議論かと言えば、私はそうは思わない。
教員確保のみならず、学校に関するあらゆる問題の根っこにあるのは、そもそも「学校」をどのような場所と考えるかということである。拙著『実用「哲学する」入門』でもさんざん繰り返したことであるが、この「そもそも論」、すなわち「そもそも学校とはどのような場所であるべきか?」こそが、ほとんど唯一の「本質」に関する議論である。学校や教育に関するどのようなことを問題にしても、「そもそも論」に立脚しない議論はすべて「弥縫策」に過ぎないのである。朝日が社説の末尾で指摘している上のような提言風のものなど、現在の学校をまるごと温存した上で、教員の負担をどのように減らすかということについて、付け焼き刃的な提言をしているだけである。気の毒なので「付け焼き刃」という言葉を使ったが、何のことはない、それもまた「弥縫策」の一種である。
長く教職員組合にも籍を置いてきた私がこんなことを言えば、びっくり仰天されるだろうが、教育基本法が悪い。
第1条(教育の目的)教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
これの何が悪いかと言えば、実現すべき人間の成長に関するありとあらゆる内容を含んでいることである。一切を丸抱えにし、あらゆる責任を引き受ける今のよろず屋的学校は、正に教育基本法によってもたらされているのではないか、と思う。もっとも、問題とされているのは「教育」であって「学校教育」ではない。しかし、教育基本法を最後まで読めば、ここで言われている「教育」は、やはり「学校教育」なのである。
私は、以前から繰り返しているとおり、学校を健全化するにしても、スリム化するにしても、そのためには、まず学校の守備範囲を教科教育に限定すること、そして丸山真男言うところの「する論理」に徹底的に基づく場所にすること、以外にはないと思っている。(→参考記事=3回連載になっている)
異論を持つ人がいるのはいい。だが、少なくとも、「そもそも学校とはどのような場所であるべきか?」という原点を、既に自明のことであるかのようになおざりにし、確認する作業をすることをせずに行われる議論は、すべて「弥縫策」なのだ、ということは重々肝に銘じなければならない。
朝日が、本質に関する議論の必要性を指摘したのは立派だが、本質が何かということを提起しきれなかったことは残念だ。もしかするとそれは、議論そのものが出来なくなっている今の日本の現状を表しているのかもしれない。