総論を避ける本能?

 昨日の朝日新聞社説では、教員の精神疾患が多いということから、学校における働き方改革を問題としていた。別に目新しい問題ではない。精神疾患のみならず、教員採用試験の倍率低下(職としての不人気)や労働基準法との関係で、年々問題とされることが増えている。12日の毎日新聞「CUクローズアップ」欄にも、半面に及ぶ大きな記事が出ていた。私も、このブログその他でたびたび問題視している(→参考記事=ここにリンクを張ってある記事も参照して下さい)。
 だが、朝日にしても毎日にしても、記事にしてくれるのはありがたいにせよ、非常に大切な部分が書かれていないという違和感を抱いた。少し悪意的にいえば、その大切な部分をあえて避けているのではないか、とさえ思った。
 例えば、私がけっこう力を込めて指摘している多忙の理由として、延々と繰り返される制度変更がある(→こちら)。しかも、それが非常にパフォーマンス的であったり机上の空論であったりする。しかし、この間の新聞記事などをいくら見ても、誰一人そんなことには触れない。昨日の朝日社説にしても、原因には触れていないが、解決策として「行事の精選」「デジタル化での校務の効率化」を挙げているところからすると、原因として、行事が多すぎる、校務が非効率的である、と考えていることが想像できる。
 仕事を効率的に処理するために、すぐ「デジタル」を持ち出すのは、県教委の言い分、もしくは教育以外の分野における問題解決策と同じだ。デジタルに移行すれば何でもかんでも楽になると信じているらしい。おめでたい話である。私には、デジタルがあるから忙しくなっている、と見える。まず、使えるようにするためには学習が必要だ。しかも、デジタル機器もトラブルを起こす。デジタル機器のトラブルは、素人の手に負えない。また、デジタルを導入する前なら「できません」で済んだことが、できるためにやらざるを得なくなった。たいていは、どうでもいいような、少なくとも「なければないで済む」仕事である。加えて、情報流出やそれを防止するための煩瑣なルール、そのルールを学び、身につけているかどうかチェックするための仕事も生まれた。
 毎日新聞の記事では、「悩んでます」というだけで、あまり具体策に踏み込んでいない。紹介されている中教審の議論にしても、2019年1月に出されたものである。そこで行われた仕事の分類で、「教師の業務だが負担軽減が可能な業務」には「学習評価や成績処理」が含まれる。しかし、これについてはその後(高校では今年から)「観点別評価」という、まるで原爆のように多忙化インパクトが大きい制度変更が降ってきた。いくら負担の大きな制度を作ったとしても、デジタル化さえすれば「負担軽減が可能」などと考えているとしたら、それはブラックジョークである。
 職員会議での議論を聞いていると、問題とされ紛糾するのは、たいていどうでもいいような些末な各論部分であって、教育の理念や学校の教育方針と関わるような大切な総論部分は議論にならない。総論に手を付けると紛糾し、収拾が付かなくなることや、最終的には文科省や県教委の方針とぶつからざるを得なくなること(ぶつかると負け=やっても無駄)が分かっているから、あえて避けるのだろう。あるいは、従順な教員作りという国の施策が功を奏して、教員にももはや根源を問い直す力がなくなっているのだ。
 教員の働き方改革に関する議論もおそらく同じだ。国が強力に主導する制度やその方向性、決定プロセスこそが全てを誤らせているのに、そこに文科省や県教委が絶対に手を付けないのは当然として、マスコミも言及しない。制度を作った権力に対する恐れ以前の問題として、人間には「どうでもいいことにこだわり、大切なことは見ないふりをする」という本能が備わっているのではないか、と思うほどだ。そして、問題の所在を各論に限れば、多忙は現場の責任、改善されないのは現場の努力が足りないから、ということになってしまう。
 それでも、根っこに手を付けなければ、教員の働き方改革はない。各論部分だけで無理にやれば、ますます教育の質を低下させ、学校が信頼を失い、世間から非難され、教員がやりがいを失って心を病み、なり手がいなくなるという悪循環に陥って行くだけだ。時代の変化という事情もあるにせよ、戦後70年以上もかかって作り出されてきた現状である。何かをちょっといじって問題が解決すると考えるのも間違いだ。教員はすっかり骨抜きにされた上、制度の中でがんじがらめになり、言うに言えない状況になっているのだから、ぜひともマスコミには総論部分で根源に迫る議論を展開してほしいものである。その点において、朝日も毎日もまったくお粗末。