優等生の心理・・・多忙解消のために

 昨日は、「ラボ・トーク・セッション」に先立ち、日中は仙台市内で教職員組合の定期大会に出席していた。今年の私の発言は以下の通りである(原稿なしで話したことの復元なので、文言には異同がある。うまく話せなかったことを若干補足もした)。

「職場の多忙化について、憎まれ口を叩きに出てきました。実は、私は議案書に書かれている、いかにも多忙化の責任が県にあって、その解決を県に求めていくみたいな言い方が、あまりいいとは思っていないんですよ。
 例えば、原発の運転に私は反対していますが、この組合の議案書も含めて、世の中の原発反対・石炭火力発電所反対といった運動を、私はうさん臭いなと思いながら見ています。なぜなら、原発反対を訴える人々が、節電を訴えるのを耳にしたことがないからです。今の日本が大規模な発電所を必要としているのは、今の私たちの狂ったように豊かな生活があるからなのであって、そのことを放置したままで、むやみに原発や石炭火力発電所に反対するのは身勝手です。いかにして日々のエネルギー消費を抑えるか、少なくとも、原発反対を叫ぶのと同じだけのエネルギーは、それを訴えることに費やさなければなりません。
 なぜ唐突にこんな話をしたかというと、職場の多忙化も同じだと思うからです。職場の多忙は、現場職員によって作り出されている部分も大きいのではないでしょうか?私は、私たち自身がその気になって仕事を減らそうとすれば、授業以外の部分で3割から5割くらいの削減は出来るのではないかと思っています。
 今、たまたまノートに、今年度始めの職員会議で、勤務先の校長が“本校の目指すべき方向”と題して行った演説(?)のレジメが挟んであったので、ちょっと読みます。全部で4つある内の2つめです。

『教員にとって、教材研究をしたり、自らの専門性を高めるための時間は絶対に必要です。可能な限り業務を減らし、教員が本来の教育活動に専念できる学校を目指します。』

 これ、素晴らしいと思いませんか?日頃、この校長がやっていることを見ていると、口先だけではないと思いますよ。だけど、これによって仕事が減ったかと言えば、ほとんど変わりません。私が見ていると、そもそも教員自身に仕事を減らしたいという気持ちがない、もしくは強くないんです。長時間勤務が全然苦でない人、仕事を増やすのが好きな人って、どこの学校にもいませんか?いますよ。
 理由はおそらくこういうことです。
 まず、長い時間仕事をする、あるいは忙しいと言ってドタバタしていると、頑張っているという充実感に浸れるんです。もう一つは、教員って、やっぱり元々優等生なんですよね。優等生はほめられることや感謝されることが大好きです。もちろん、ほめられることも感謝されることも、決して悪いことではありません。しかし、本当に大切なこと、本当にいい仕事をしているからほめられるかと言えば、必ずしもそうとは言えません。
 例えば、特に思うのは進路や部活です。生徒が考える以前に、教員がそれを先取りして考える。生徒自身にやらせればいいことを教員がやってしまう。私はそういう仕事がたくさんあると思います。そして、そういう仕事は間違いなく生徒の成長や自立を阻害します。それでも、あの先生は頑張っていると言われたり、面倒見がいいと言って感謝されたりするんです。
 教員は非常に真面目です。それが、目先の利益主義と結びつくと、実に余計な世話を焼いて感謝され、多忙になる、ということなんですね。何かをする時に、それが本当に必要な仕事なのかどうか、長期的な視点に立って生徒のためになるのかどうか、いちいち立ち止まって考えながら仕事をする必要があるのではないでしょうか?
 県教委や校長が無理強いしようとする、例えばパフォーマンス的な研究指定などを跳ね返すのはいい。一方で、彼らが無理強いしようとする以外の仕事について、漠然と、リーダーシップを発揮して多忙を解消させろなどという要求を出した日には、私たちの思いとは逆に、県や校長の権限を強化させることになってしまいます。多忙化解消の問題は、半分は私たち自身の問題です。その点について考えてみる必要があると思います。」

 聞いていた人たちが何を思ったかは不知。発言の中ではこんな言い方はしなかったが、ほめられること感謝されることが大好きな優等生は、むしろ、何かをしないことで「あの人は仕事をしない」とか「熱心でない」とか言われるのを恐れる気持ちの方が強いかも知れない。そもそも、人間というのは、利益に対する誘惑よりも、不利益に対する恐怖の方が強いから・・・。そのことは戦争の時の人間を見るとよく分かる。人事を握られている人間が忖度するというのも、そんな心理によるはずだ。