あまりにも「当たり前」のこと

 先週の金曜日、さいたま地裁で教員の残業代についての判決が出た。原告も、多くのマスコミも言っているとおり、未払い賃金の支払いが認められなかったという点では敗訴なのだが、労働基準法は教員にも適用されるべきだと付言し、校長が教員の長時間労働を解消する措置を執る義務があると指摘した点は、確かに画期的である。
 しかし、なぜこれほど他愛もない、いわば「当たり前」のことが画期的なのだろう。世の中の人々にはその異常さをよくよく認識して欲しいと思う。
 だが、私は残業手当が付くようになればいいとも、完全に残業が無くなればいいとも全く思わない。大切なのは仕事の中身である。今の学校は、本当にバカバカしくなるほど徹底した上意下達の世界である。しかも毎年毎年雨あられと降ってくる様々な制度変更等の指示は、文科省の役人が机の上でこねくりまわしたか、変えることによって自分の力を誇示したいアホな政治家が、人々の歓心を買いたいという思いもあって、学ぶことの本質や教員の労働実態のことなど一切考えずに言っているか、の類いばかりである。それ故、「多忙」の質が甚だ悪いのである。生徒の成長に確かに寄与すると教員自身が思えるような仕事を、自分の自由意志で長時間するのであれば、それを苦とする教員はいない。おそらく、現状から考えるに、仮に教育委員会や校長の努力によって、全ての教員で残業ゼロを無理矢理実現させたとして、その時に残っている仕事は、教員が最もなくして欲しいと思っている仕事ばかりで、本当に必要だと思っている仕事をそぎ落とした結果の「残業ゼロ」になっていそうだ。あぁ、否定できないブラックジョークの世界!
 もちろん、それがいつまでたっても悪くなる一方で、いささかなりともよくならないのは、一般市民にも「教員は別」という意識が根強くあるからである。土日に部活の指導に出ていても「当たり前」。生徒の生活状況に多々問題があって保護者を学校に呼べば、「仕事が忙しいから7時以降にしてくれ」と平気で言う。そんな意識が、まわりまわってお上の「4%働かせ放題」という意識になる。
 以前から何度か書いているとおり、私自身はあの手この手で逃げ回り、定時に近い時間に退勤、適正なワークライフバランスの維持をかなりの程度まで実現させている。それが、自分の教員としての資質を維持向上させ、長い目で見た時には生徒にもメリットがあると考えているからだ。それでも、私に代わって割を食っている同僚がいるかも知れないし、私自身も勤務時間中にかなりの無理をしている。そもそも、授業で受け持っている生徒だけで6クラス240人ともなれば、自分がすべきだと思う教科指導の半分もできていないと感じることのストレスは大きい。
 私が教員になった30年あまり前には、職業を聞かれて「高校の教員です」と答えると、「いいですね」と言われていたのに、最近は「大変ですね」と言われる。世の中にも、少しずつではあるが、教員の労働実態が理解されるようになってきている。少なくとも、それについて語ることがタブーではなくなっていると感じる。
 今回の判決に付された裁判長の意見がきっかけで、多少なりとも、仕事の内容と量についての見直しが進むといい。現職の教員がやりがいを持って元気に仕事ができるようにすることも大切だが、最近、教師希望の若者がどんどん減っているという事実を何とかしないと、社会が構造的に弱化してしまう。それこそ本当の危機だ。