改革ではなく革命を

 水曜日の河北新報に、「命脅かす気候危機」という巨大な見出しの記事が出た。1面の3分の2にも及ぶ大きな記事である。それによれば、9月6日に、世界の220を超える医学や看護学の専門誌が、温暖化とその影響についての共同論説記事を掲載したらしい。「産業革命以来の気温上昇が1.5℃に達することや生物多様性の消失が、健康に取り返しがつかない破局的な影響をもたらす」(記事では、読点が「や」の後ろだったが、分かりにくいので、私が移した)と最大級の表現で警告を発しているという。これを大々的に取り上げた河北新報は偉い。
 パリ協定で、「1.5℃」は努力目標として設定されているが、実際には、ほとんど実現不可能な観念上の努力目標に過ぎず、理想と現実のぎりぎりの妥協点として「2℃」が意識されているように見える。私は、その実現に対しても極めて否定的だ。間違いなく、事態は最悪のシナリオ(4.5℃)を超えて進行し、人間はおろか、生物の居住環境は破滅と言ってよいほどの状態になる。今くらい危機的な情報が出回っていながら、世界の全員が真っ青になって自分の生活を見直すどころか、どこかの誰かの話とでもいうように、何のためらいもなく資源を消費し続けている以上、温暖化にブレーキなどかかるわけがない。おそらく、ほとんど全ての人にとって、温暖化対策は政府と専門家だけが取り組んで「何とかしてくれる」べきものなのだ。そうこうしているうちに、様々な現象は相互に関係し合い、連鎖反応を起こして急加速する。それが自然界の法則というものである。
 さて、共同論説記事は、医学者たちの「1.5℃」に対する極めて深刻な危機感を表しているわけだが、国民から対策を丸投げされている政治家たち、特に最大の影響力を持つ自民党の政治家たちは、相も変わらず、見ていて具合が悪くなるような旧態依然としたパワーゲームを続けている。野党やマスコミが言うように、選挙で自民党を負けさせることによってしか、自民党の変革もあり得ないことがよく分かる。
 だが、いかがわしげな権力闘争や「政治と金」の問題が解決したとして、温暖化問題は何ら解決しない。与党であるか野党であるかを問わず、皆が強固な信念(←本当は「思い込み」と言う方が正しい)として持つ「経済成長なくして分配なし」、「少子化は国家の危機」というところから180度発想・方針を転換しなければ、人間は破滅するしかないからだ。必要なのは今や「改革」ではなくて「革命」である。
 私が学問上の専門とする中国革命を始めとして、古来世界の各地で繰り返されてきた革命は、分配のあり方を巡って起こされたものであった。だが、革命当初、生きていくのに最低限必要なものさえ安定的に手に入れば満足できていた人々も、いざそれが実現すると、もっと多くを求めるようになる。つまり、現在の政治と同じく、人間の際限ない欲望を掘り起こし、充足させるものであった。革命以前と革命以後では、主体が変化するだけで、「人間の本能に沿い、欲望を充足させる」ことを目指す点では連続している。分配方法の変更が大きく急激なものは「革命」、穏やかなものが「改革」であるに過ぎない。だから、その革命はある意味で容易であった。
 一方、今私が必要と言う革命は、人間の欲望に逆らい、ひたすら縮小を目指すという点で、過去のいかなる革命とも異なる。人類史上最も困難な革命だ。地中から好きなように物を掘り出し、消費するという生活は全くの間違いである。既に取り出してしまった物質はよいとして(燃料以外は永久に再生産・再使用可能。ただし、それをするためのエネルギーとして地下資源を使うのはNGとなると、けっこう難しいのだが・・・)、今後、一切掘ってはいけない。それ以外に「持続可能」な生活はあり得ない。その時、世界のみならず、日本にしても、今の人口がいかに重い負担であるかということに人は気付くはずである。
 残念ながら、現時点で、そんな革命の可能性を私は微塵も感じることができない。なにしろ、私の家族でさえも、車で1時間以内で行けるところに公共交通手段で2時間かけて行き、もしくは行くことをあきらめ、使い捨てのプラスチック容器(ペットボトルや弁当箱など)に入った飲食物を滅多なことで買わず、冬もストーブの使用を最少限に抑え、食器を水で洗い、便座の電線も抜いてしまう私の危機感を理解しないのである。先日も書いたとおり(→こちら)、結局、戦争と同じで、終わった時にしか、現実は見えるようにならない。それは自然の摂理、神様の仕組んだ罠なのだな。