戦争の教訓と温暖化

 今日は終戦記念日。日頃から、戦争こそが学ぶべき教訓の宝庫だと言っている私にとって、非常に重要な意味を持つ日である。
 しかし、最近よく思うのは、戦争の教訓を戦争だけの教訓にしてしまったのではよくない、ということだ。そこにどのような人間の性質が表れているのかということを抽出し、一般化しなければ、戦争以外のことに対しては一切無力、ということになってしまう。戦争が人間の行為である以上、戦争に表れた人間の問題は、あらゆることに反映するはずだ。したがって、教訓もまた様々な問題に応用が可能なはずなのである。
 私が考える戦争の教訓、いや、戦争に表れた普遍的な人間の性質とは、ごく簡単に整理すれば次のとおりである。

・景気のいい話、自分に都合のいい話が大好きだ。
 (=不都合な話からは目を背ける。)
・何が正しいか考えず、周りの様子を見ながら自分の態度を決定する。
・人から消極的だとか、軟弱だとか評価されたくない。

 現在の人間の生き方にも、すべて含まれるものではないか。現在、日本が戦争していないことによって、戦争の反省は生かされ、私たちは当時の人間のような生き方をしていないと考えるとすれば、実に愚かなことである。
 さて、北海道の話を整理したりしているうちに、IPCCが新しい報告書を出した。内容も表現も、過去の報告書を遙かに上回る厳しいものだ。私にとっては何の違和感もない。当然のことだろう、と思う。いや、むしろ、私はこのIPCCの報告書の、最も悲観的な予想すら上回るペースで温暖化は進むだろうと思っている。理由は次の通りだ。

・多くの人には、温暖化の深刻さが分かっていない。
・温暖化の原因が、今の自分の生活にあるということに気付いていない。または、あえて無視している。
・温暖化による影響を文明(石油)の力でねじ伏せて、今まで通りの生活をしようとする。
・食糧不足や浸水が起こったときに、武力によってそれらの奪い合いを始める。

 私が、温暖化加速の原理として最も重要だと思うのは3つ目だが、不思議に思うのは2番目だ。これだけ異常な気象現象が起こり、温暖化が深刻な危機をもたらすと言われていながら、まるで温暖化は地震と同様ただの自然現象、対策は政府がするもの、と考えているかのようだ。
 私はこのブログだけではなく、一般紙等でも、温暖化がいかに深刻な問題であるか、それを回避して生き延びるためには、今の豊かな生活を維持するというような虫のいいことを考えていてはいけないということなどを、繰り返し訴えてきた。今の人間の生活と温暖化の関係など、あまりにも自明で、頭が良くなければそれに気が付けないなどという問題では絶対にないと思う。しかし、現実としては、世の中の人々にまったく何の危機感も感じることが出来ない。レジ袋の有料化など、実際に取られている対策は、子供だまし以下のレベルである。
 そこで私の頭に浮かぶのは、戦争の教訓だ。戦争を推し進めていくときの人間の姿は、東日本大震災の後の「復旧・復興」にも、温暖化対策にも、まったくそのまま通用する。相手が津波であり、温暖化(気象災害、やがては食糧不足)であるために、それが戦争とは別のことに見えてしまうらしい。教訓というのは、人間性の問題に一般化しなければ、一切応用が利かない。
 7月末、異常な暑さが続いた(特に北海道)と思ったら、北日本は一転して寒い夏だ。例によって中国・九州地方では、「観測史上最多」の雨。イタリアでは48.8℃が観測され、ギリシャではおびただしい数の山火事が発生している。今日の新聞では、7月の平均気温が史上最高であったことが報道された。この期に及んで、温暖化の深刻さにも、その原因が今の自分たちの生活にあるということにも気付けないとしたら、やはり地球を浄化するために、人間には滅亡への回路が組み込まれているとしか思えない。
 人に言っても、人間関係が壊れていくだけで無駄なので、私は人には言わない。ただ、自分では、これまでにも増して、エネルギー(資源)消費を減らす努力をしなければ、と思っている。それでもどっちみち人間は間もなく滅ぶ。子どもたちはかわいそうだ。だが、その子どもたちも、自動車や使い捨て容器やエアコンを、問題を教えてあげても、手放す気になれないどころか、何のためらいもなく好きなだけ使おうとするのだから仕方がない。神の意志である。