焼き直し「戦争の教訓」

(2019年8月27日「学年だより№16」より)

 前回裏面で少し触れた通り、8月は2回の原爆忌終戦記念日がある「歴史」学習月間とも言うべき月である。新聞でもテレビでも多くの特集が組まれる。東日本大震災の被災地では、よく「津波の教訓」ということが語られるが、原発事故を別にすれば、津波なんて単純な自然災害に過ぎない。人間の生き方を考えるための「歴史(教訓)」として、戦争に勝るものはない。
 昭和の戦争は一部の政治家や軍人によって起こされたもので、国民は被害者だ、と私は考えない。今のような民主的システムがあったとしても、戦争は起こっていた、と思う。なぜなら、「戦争」が泥沼化していく過程からは、次のような国民の姿が見て取れるからだ。

・景気のいい話、自分に都合のいい話が大好きだ(=不都合な話からは目を背ける。)
・何が正しいかを考えず、周りの様子を窺いながら自分の態度を決定する。
・人から消極的だとか軟弱だとか評価されたくない。

 これらの結果として、人は勝利に熱狂し、政府の情報を鵜呑みにし、過激な方向にばかり動こうとした。そして、ボロボロの状態で戦争に敗れ、初めてそれまでの自分たちの過ちに目を向ける。
 戦争の教訓は戦争だけの教訓ではなく、人間の本質についての教訓だ。上のような人間の性質は、今の人間の行動にもそのまま表れていないだろうか?今私達がしていることで破滅に結びつくこと、破滅に至って初めて後悔するようなことはないだろうか?
 そういう考え方をできるようにすることが、いつも私が言っている「勉強する=世界を広げる」ことの意味なのだよ。

 

【生徒会は誰のもの?・・・間もなく役員選挙】

 先週の木曜日、生徒会の選挙を担当する某先生から、「平居先生、1年生からも立候補するように呼びかけお願いしますよ」と声を掛けられた。私は丁寧かつ遠回しにお断り申し上げた。
 なぜなら、生徒会は生徒による生徒のための自治的組織だと思っているからである。生徒会がなければ、生徒は先生たちに対して組織的に発言することができなくなる。行事も一部は廃止か与えられるものになってしまい、今以上に受け身な立場に立たされることになる。逆に言えば、校内の諸問題にもの申していくためには生徒会が必要だ。その人選に教員が介入することは、諸君の自治を骨抜きにしてしまうことである。高校時代の私だったら、「余計なことするな」と怒っただろう。
 立候補者がなかなか出ず、それが困ったことだとしたら、働きかけをするべきは、生徒会の意味と必要性がよく分かっているはずの現執行部であるはずだ。

(他の記事は省略)

裏面:2019年8月21日付け毎日新聞「温暖化 航空業界に影」(→既にこちらの記事で言及)