低調な会議、作られた「平和ぼけ」

 昨日の午前、教職員組合の会議に出たことは少し触れた。「中央委員会」という正式な機関会議である。その中で、最近、学校で生徒総会がきちんと機能していない、という問題を提起した人がいた。まったく議論の体を為しておらず、なんとなく拍手をしておしまい、そんな生徒総会に対して、私たちは民主主義教育という観点からどのようにアプローチしたらいいのか、真剣に考えるべきだ、というような話である。
 同感と言えば同感なのだが、二つのことを思う。
 一つは、クラスや委員会で行われるような会議ならともかく、総会が形式的であるというのは、大人の世界でも、そして50年前でもあまり変わらないだろう、ということだ。1年間の行事やお金に関する問題を、数百人で議論しようというのは元々無理なのだ。事前の審議は多少必要だろうが、総会そのもので議論が行われなかったとしても、あまり問題ではないような気がする。
 もう一つは、こちらは大事なことだが、議論が低調というのは大人のどんな会議でも同じ傾向がある、ということだ。
 例えば、昨日の中央委員会は、開会から閉会まで、挨拶や手続き的な部分まで全て含めて2時間であった。前回から4ヶ月くらいの間に起こったあまたの教育問題について、2時間で情勢報告をし、質疑応答をし、討論をして採決するなんて不可能のはずだが、実際には、むしろ予定よりも短いくらいの時間で終了した。30年前の中央委員会なら、丸々1日かかっていた。
 職員会議も同様だ。だいたいどこの学校でも、授業やホームルームが終わってから勤務時間の終了まで1時間。以前と違って、勤務時間を超えての延長というのは基本的にないし、あっても10分、20分のレベルだ。それで、翌月に関するすべての議題を処理し、場合によっては次年度に関わることまで扱うわけだから、本当の「議論」などできるはずがない。ほとんどは「お知らせ」のような形で一方的に説明が為されるだけで、出るとしても簡単な質問が一つ二つ、という感じだ。
 そして、組合の会議にしても、職員会議にしても、意見がまとまったかどうか、問題が解決したかどうかよりは、「ああ、早く終わって助かった」となるのである。
 以前、何度か書いたことだが、世紀の変わり目頃に(←あくまでも宮城県の場合)「日の丸・君が代」問題が県教委(の背後にある政府)のごり押しによって終了してから、教員間の議論の火は消えた。どうせ、決定は上から降ってくる。頭を使って考えるなどという面倒なことはしても無駄。実にふがいない話であるが、教員にだけ罪を押しつけるのは不当である。
 そして、教職員組合の場合は、組織率の急激な低下によって、教育行政に対する発言力が失われたことも、会議の停滞に拍車をかけた。非常に根の深い、難しい、つまりは組合員同士でも意見の一致を見出すことが難しい問題が多い上、苦労して出した結論も、県が聞く耳を持たないとなれば、議論が自ずから低調になるのは仕方がない。
 大人がそんな会議をしていれば、生徒に会議の指導などできるわけもなく、大人の会議の反映として生徒の会議も低調となる。非常に構造的な問題である。私は「日の丸・君が代」との関係は非常に深いと見ているが、今や教員も、おそらく教育行政の側も、誰もそんなことは意識していない。そして、得体の知れない「時代の流れ」というものの責任にするのである。確かに、「平和ぼけ」の一種ではあるのだが、それは戦後78年の不戦と経済的繁栄によるのではなく、権力によって意図的に作られた「平和ぼけ(お上の言うことを聞いている限りにおいて、気楽で面倒がない)」である。