「第100回」はあるのか?

 今日は、教職員組合の定期大会に参加するため、仙台に行っていた。会場正面に掲げられた「第90回~」という横断幕を見ながら、再任用の最後まで私が教員をやっていたとしても、私は第100回の会場にいることはないのだな、との感慨が湧き起こってきた。会の終了後、旧知の某とそんな話をしていたら、私より1つか2つ年下の某は、宮城の高教組(高等学校・障害児学校教職員組合)という組織は、第100回まで存続するのであろうか、と思いながら眺めていたという。確かにそうだ。討論に参加した代議員が「昔はこうでしたよね」などと語る時に、出席者のほぼ全員がその「昔」を共有しているのだから驚く。私の若い頃の仲間が、まったくそのままスライドして同じ場所にいる。日本の労働組合の普遍的な姿かも知れない。
 冒頭、委員長の挨拶の中で、次のようなことが語られた。

「若い人に『組合に入りませんか?』と呼びかけると、『入ってどんなメリットがありますか?』と尋ねられることがよくあります。確かに、今すぐメリットがあるわけではないので、答えるのはなかなか難しいんですよ。だけど、私たちが活動することで、後の世代のためによりよい待遇や教育環境を勝ち取ることができるわけです。私たちの様々な権利や勤務条件も、前の世代の組合員たちの努力のおかげですよね。そう考えなければならないのではないでしょうか?」

 ははぁ、これはなかなか難しいぞ、と思った。
 生徒が生徒会で学校に対する要求を議論する時でも、例えば校則の改正など、自分たちが在校中に実現する可能性が高いなら議論も成り立つが、在校中の実現はありえず(制服の改定など)、2~3年後、まだ高校に入学もしていない人たちの代からなら実現するかも知れない、などという内容の議論は絶対に成り立たない。今の自分自身にメリットがなければ、普通の人間の感覚としては「やっても無駄」、価値のないことなのである。これは、生徒でも、学校教職員でも、日本国民でも全く同じだ。前の世代の努力に感謝しつつ、次の世代のために、月々数千円の組合費を払って、面倒な思いをする気になる奇特な人間はそうそういるわけがない。「組織拡大」への道は限りなく厳しい。
 もっとも、委員長のそんな言葉を聞くまでもなく、教員組合の維持・拡大が至難であることなど分かっていた。この期に至っても、環境問題の危機的状況に気が付き、生活を改めることのできない人間たちである。教育を取り巻く政治状況の危機など気付くはずもなく、まして、血相を変えて危機回避のための努力をするなどということもあり得ない。ただただこの平和な状況を当たり前と思って、脳天気に享受しているだけである。そうして歴史は繰り返される。身の回りの状況を子細に観察しながら、私には、どうしても明るい材料が探せない。
 私は立派な活動家ではない。何事に対しても是々非々で、右から左まで、どんな組織にいても常に絶対少数派。しかも経済発展を否定し、給与引き上げなんて許されないという立場に立つ。根っこの所で労働組合との間に思想矛盾があるのである。ただ、当局に物言える組織は必要だと思っているのと、昔からの成り行き(「腐れ縁」というやつ)で、辞めるに辞められず、自分の思想と比較的矛盾の少ない教研活動にほとんど特化した形で、細々と組合員を続けているだけだ。
 それでも、あと10年、第100回の定期大会に組織が存続していないかも知れないという予想は寂しい。いくら今が平和に見えても、ちょうど教職員組合が消滅した頃から平和の崩壊が顕在化して、組合の消滅を恨むが取り返しが付かない、という状況になるに違いない。残念ながら、人間はそんな歴史発展の法則から逃れられそうにない。