ショスタコーヴィチ(1)

 どうしたら消費するエネルギーを減らせるか、ということを非常に重要な問題意識として持っている私は、半年ほど前から、生ゴミを庭で処理することにした、という話はいつぞや書いた(→こちら)。それは今でも継続している。自然の能力というのは偉大なもので、気温が低く、微生物の働きもさほど活発とは言えない時期であったにもかかわらず、狭い範囲で処理は追いついている。
 生ゴミの中には、様々な植物の種子も含まれる。特に多いのがカボチャの種だ。2週間ほど前だろうか?それが芽を出していることに気が付いた。既に穴を埋めた場所である。そしてその芽はあれよあれよという間に大成長だ。見ていて面白いほど伸びる。子どもに、「夏休みの自由研究になるから、毎日蔓の長さ測ってみたら?」と言ってはみたが、やろうとしない。私自身も面倒くさいとか、朝家を出るのが早いとかでやっていない。あくまでも目測なのだが、1日に10㎝は伸びているのではあるまいか?既に3m近い長さになって、生け垣に這い上がろうかというほどである。これまた、自然の能力は偉大だ。
 このまま放っておけば、やがてカボチャが成るのだろう。楽しみにしながら見守っているところ。

 話題は変わる。
 もはやかれこれ1ヶ月ほど前の話になるが、某大学の老先生と2人で酒を飲みに行った。2人で3時間、最低ランクの大衆的な居酒屋で1万1千円以上飲んだのだから、我ながら驚く。しかも月曜日であった。それでいて、翌日けろりと出勤できるところが、最近の体調良好をよく物語る。
 途中で話題が音楽に及んだ。老先生はショスタコーヴィチ交響曲第5番がたいそうお気に入りである。「平居さんは?」と聞かれたので、少し考えた上で、「ショスタコーヴィチなら第8番」と答えた。以来私は、本当に彼の交響曲第8番が「好き」なのかな?なぜ第8番なのかな、ということが気になっているのだが、それは私のショスタコーヴィチについての理解・認識を問うことそのものとなった。その後の1ヶ月で、ファーイによる伝記(=ショスタコーヴィチ伝の決定版)やヴォルコフによる『証言』(=ファーイによって偽書であることが証明されたが、内容的にはほぼ真実と思われる)その他を読み直し、室内楽も含めた幾つかの作品(ショスタコーヴィチ作品のしょせんごく一部)を聴いたりしてきた。
 思えば、このブログでも、ショスタコーヴィチは何度となく登場する。その中で、交響曲第7番「レニングラード」について書いた記事の2回目(→こちら)が、最もよく私のショスタコーヴィチ観を伝えているであろうが、さほどまとまった記述ではないことだし、今回改めて書いておこうかという気になった。
 ショスタコーヴィチは、おそらく、私の大好きな作曲家の一人であるが、この言い方には語弊がある。「大嫌いで大好き」もしくは「大好きで大嫌い」というのが正しい表現かも知れない。私がショスタコーヴィチを聴くのは、「怖いもの見たさ」というようなところがある。
 私がわざわざ言うほどのことではないが、ショスタコーヴィチは、ソ連という国家の体制、独裁者スターリン、更に広くいえば「権力」というものを徹底的に恐れていた。それは確かであろう。彼は何も悪いことなどしていないのだが、常に権力によって粛正されることの恐怖と向き合って生きていた。その結果、表面上は体制の価値観に迎合する作品を作りながら、あちらこちらに本心をのぞかせる。もしくは、彼の本心を予め知る人間にのみそれが分かるような工夫をしつつ曲を作った。彼の曲というのは、権力に対する憎悪や、権力によって粛正された人びとに対する哀悼を裏の主題とするのである。
 ショスタコーヴィチの音楽は、一聴してその異様さに気が付きはするものの、音楽というものの抽象性もあって、その異様さの具体的な中身にまでは気が付けない。私は、彼の伝記を読むことで、前段に書いたようなことを知っておかなければ理解のできない音楽に思える。そして、そのようにして「理解」ができた時には、圧倒的な心理的リアリティーをもって迫ってくる音楽であるようだ。音楽の表面と背後にある心理の大きな矛盾、そのようにして音楽を作るしかなかった作曲者の鬱屈が、彼の作品からはとてもよく伝わってきて息苦しい。それが、私が彼を「大嫌い」と言う理由である。
 一方で、それがまた「大好き」な理由でもある。私は彼のように権力から批判され、生死のかかった窮地に置かれたことはない。むしろ、教育職公務員として権力の末端に籍を置き、それに守られて生きてきた人間である。しかし、歴史の勉強をしたり、今の社会状況を見ながら、「権力」というものに対しては、並々ならぬ反感と恐怖感を持ってもいる。もしかすると、それは教員になったばかりの1980年代末から1990年代初めにかけて、日の丸・君が代の入学式、卒業式への持ち込みを巡る当局(=校長)と職員との激しい攻防を目の当たりにすることによって作られた「トラウマ」であるかも知れない。その時、ノンポリであった私は、「権力」というものの嫌らしさと恐ろしさを痛感し、政治についてそれなりに強い問題意識を持つようになった。
 つまり、強い共感を覚えるということにおいてショスタコーヴィチは「大好き」な作曲家なのだが、その共感の中身があまりにも暗く、重いものであるがゆえに、同時に「大嫌い」でもあるわけだ。(続く)