素材の味を大切に・・・ヤンソンスのベートーヴェン



 子供が見ていたテレビ番組の都合で、偶然『題名のない音楽会』が目に入った。若いバイオリニスト山根一仁と指揮者・宮本文昭がゲストらしい。なんとなく見入っていたところ、宮本文昭氏(私にとってはオーボエ奏者であり、まだ指揮者としてなじめない。オーボエ奏者としては非常に優れた人だと思う。引退したのは実に惜しい)が、昨年、東京シティフィルの音楽監督となり、以来、オーケストラに「完全燃焼」を常に求めてきた、という話になった。

 どうも違和感を感じる。「完全燃焼」という言葉には、「力一杯」という体育会的な響きがあるからだ。また、声高に「完全燃焼」と言って「完全燃焼」するくらいなら世話はなく、むしろ、どのような音楽作りをすれば楽員が完全燃焼する気になるか、大切なのはそちらである。おそらく、オーバーアクションでぶんぶん指揮棒を振り回せばオーケストラが本気になるというものでもなく、楽員が「完全燃焼」を念頭に置いて最大限のエネルギーで演奏すれば、聴衆が感動するというものでもないだろう。集中力ややる気は感動的な音楽を作る上で重要な要素だが、それだけで人の心を動かせるのはアマチュアだけではないだろうか?芸術は人間に対する洞察に依って立つのであり、深い音楽というのは、「完全燃焼」という体育会系の言葉には似合わないような気がする。

 しばらく前、6月16日のことになるが、Eテレの「クラッシック音楽館」でマリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団の来日公演が放映された。曲目はベートーヴェン交響曲第3番、4番、5番である。たいへん魅力的なプログラムだったので、録画しておいて、2回も見直してしまった。

 ヤンソンスは70歳。私がたった一度、彼の演奏会に行ったのは1986年のこと(仙台、レニングラードフィル=まだ、サンクト・ペテルブルグフィルになっていなかった。東京と大阪だけだったが、ムラヴィンスキーも来ていた!)で、その時は、ほとんど青年指揮者のような雰囲気だったから、それに比べれば年は取ったものの、見た目は大変若々しい。風貌も動作も、である。

 ところが、指揮台に立ったヤンソンスの動作は非常に抑制されていて、極端に言えば、ほとんど何もしないに近い。こういう人がいるからこそ、指揮者は一般人から存在価値を疑われたりするのだ、などと思いながら見ていた(もちろん、リハーサルがどのように行われているかは知らず、本番とは打って変わって濃厚緻密なリハーサルが行われているということもあり得る)。というのは、最初の10分くらいの感想である。指揮者があまり動かないから、音楽に力が無いか、オーケストラが充実していないか、と言えば、決してそんなことはなく、むしろ、時間の経過とともに、「ベートーヴェンかくあるべし」といった体の、堂々たるベートーヴェンであることに気付き、なかなかの感動を持って耳をそばだてることになったのである。

 ヤンソンスが動かない、という場合、「まったく動かない」のではなく、「必要な時しか動かない」のだ。それはどうも、曲の持っている力とオーケストラの能力とを最大限尊重し、それらがありのままである時に最も充実した音楽になると信じて、任せきっているという感じがした。力みも奇を衒った表現もない、当たり前の、ある意味で平々凡々なベートーヴェンでありながら、人の心を動かす力は絶大だ。いわば、素材の味を尊重して、調味料を使わないといったやり方である。曲が名曲で、オーケストラが優秀であれば、それこそが音楽作りの王道だと思う。

 宮本文昭氏が繰り返す「完全燃焼」という言葉を聞きながら、その対極として真っ先に私の頭に浮かんできたのは、このヤンソンスベートーヴェンだった。


(補)昨日、この文章を書き終えてから、1986年に仙台にレニングラードフィルが来た時のプログラムがあるのではなかったか?と思い、探してみたら出て来た。そこに音楽評論家・菅野浩和氏による「マリス・ヤンソンスの魅力」という一文があり、以下のような記述を見付けて、驚いてしまった。「私はヤンソンスといいますと父親(平居注:有名な指揮者アルヴィド・ヤンソンス)の、激情的な演奏をまず連想するので、息子も似た傾向かと思いましたが、むしろ地味なくらい叙情を排して、作品に語らせ、オーケストラに物を言わせようとしていたのです。」仙台でのショスタコーヴィチ交響曲第5番は名演であったが、なるほど、ヤンソンスは、若い頃から今と同様の姿勢で音楽を作っていたのだ。(7月15日記)