新聞記者・白井千尋・・・宮水百年史補遺



 昨日、千葉県在住の知人から郵便が届いた。政治とも市民運動とも無縁な知人である。用件を記したお手紙の他に、何の関係もない新聞記事が1枚入っていた。今年3月13日付けの『赤旗』に掲載された「第五福竜丸と「赤旗」 保存訴えた初の記事」という記事である。「ビキニ被災60周年」というシリーズ記事の一つらしい。なぜこんな記事を?といぶかしく思いながら目を通すと、ビキニで被爆した第五福竜丸の価値に最初に気付き、それが廃船として処分されそうになっていることに危機感を抱いて、1968年3月2日に記事を書いた『赤旗』記者・白井千尋氏について、末尾の部分に次のように書いてある。


「白井記者は23歳だった50年、原子力兵器の無条件禁止を要求する「ストックホルム・アピール」署名に取り組んだことを理由に宮城県立水産高校の教諭をレッドパージされました。その後、日本共産党の専従活動家になり、60年に赤旗記者になりました。88年の定年退職後も非常勤として記者活動をつづけ、93年に65歳で亡くなるまで第五福竜丸に心血を注ぎました。」


 なるほど、知人はこの部分に目を付けて、宮水職員である私に記事を送ってくれたわけだ。これは、「宮水学者」(笑)である私も知らなかったことである。あわてて、『宮城県水産高等学校創立百周年記念誌』(内部出版物、1997年)のページをめくった。

 私が知らないわけだ。『記念誌』には、白井氏に関する記述が無いどころか、第2部第5編第2章に「教員組合」という節があって、そこには次のようにある。


「(昭和)26年9月1日時の天野文部大臣は教職員のレッド・パージ実施を言明したが、本校では特に問題はなかった。」(原文は「レッド・パーツ」となっている)


 そして当然のように、他の場所においても白井氏のパージについては一切言及がない。ただ、第3部第2章「漁業科の歩み」と巻末の「教職員名簿」の中に、一職員としてその名前を見付けることができるだけである。

 次に、私は『宮城高教組三十五年史』(労働旬報社、1990年)を見てみた。すると、第1章第3節の5「レッドパージ」という節に、宮城県の学校におけるレッドパージについての詳しい説明があり、「50年秋に白井千尋(宮城水産高)が職場を追われた。核兵器禁止を訴えたストックホルム・アピールの署名活動や民主的教育活動を積極的に推進したためであった。パージ通告を拒否した白井のたたかいを多くの父母・生徒・職場の同僚らが励ました。」と書いた上で、白井氏自身による「レッドパージと闘う」と題した文章(執筆時期・初出誌不明)を載せている。一部を引用しておこう。


「1950年6月朝鮮戦争が勃発し、反戦平和、民主主義擁護の気運も高まっていた。当時、全世界で、日本国内で原子兵器無条件禁止要求のストックホルム・アピールの署名運動が広がっており、私も学内や地域で積極的に推進した。町にも署名運動を呼びかける壁新聞が貼られ、生徒や教職員、父母も署名運動に続々参加するようになった。

 当時、アメリカは朝鮮戦争で原爆の使用もありうると言明し、ストックホルム・アピールの署名運動を弾圧したばかりか、署名運動を積極的に推進した労働者を、レッドパージの対象とした。

 私の場合もそうだった。米占領軍の意向を受けた県当局は、何の理由も明示できないままパージの通告をしてきた。私はただちにこの通告を拒否した。学校長は、私を水産高校からパージするかわり、隣接の町の中学校に転任するよう懇請した。私は関係者の配慮に感謝を述べたが、これも拒否した。

 私のたたかう決意を知った生徒たちは、各教室で抗議集会を開き学校当局に撤回の請願をした。ごく一部の教員を除いて職場の仲間も抗議の意志を表明した。生徒や父母たちの中には、町に抗議のビラを貼り、私が町に出てこの不当性を訴えると黒山の人だかりで激励してくれた。私を守り抜こうとする生徒たちの抵抗に対し、ついに警官隊が校内に踏み込んできて弾圧した。」


 白井氏がパージされたのは事実であろう。「ストックホルム・アピール」も「レッド・パージ」の嵐も、そして天野文部大臣が教職員のパージを言明したのも1950年(昭和25年)のことである(『教職員組合運動の歴史』(労働旬報社、1997年)の巻末年表)。だから、白井氏のパージが、1950年(昭和25年)であることにも疑いの余地がない。

 一方、『記念誌』は、天野文部大臣のレッド・パージ宣言を「昭和26年」、白井氏の在職期間を「昭25.3.31〜昭26.9.19」としているので、これらは間違いだということになる。白井氏は1950年9月、文部大臣が教職員のパージ実施を宣言した直後にパージされたのだ。『記念誌』の着任年月日が正しければ、白井氏が宮水に在職していたのは、半年間に過ぎない。


 過去に何が起こったかが「歴史」なのではなく、後の時代の人間が、どのような出来事に価値を認め記述するかによって「歴史」は生まれる。こんなことは、E・H・カーの名著『歴史とは何か』(岩波新書、1962年)をひもとくまでもなく、おそらく「常識」に属することであろう。白井氏に関する二つの本の取り扱いの違いは、そんな「歴史」の本質を強く認識させてくれる。

 もっとも、『記念誌』の記述は、単なる「歴史」叙述の問題というよりも、積極的な「隠蔽」もしくは「ねつ造」と言った方がよいものかもしれない。

 『記念誌』当該部分の執筆者は後の宮水校長、「水産資料館」との関係で拙著『それゆけ、水産高校!』にも登場する故・蓮井清氏である。蓮井氏は、教諭として1948年(昭和23年)から宮水に在職していたので、白井氏とは同僚として接し、パージの事実もその経緯も目の当たりにしていたはずである。にもかかわらず、『記念誌』に「特に問題はなかった」と書くことの意味は大きい。これが蓮井氏個人の判断によるのか、『記念誌』編集委員会、もしくは宮水やその同窓会の意志によるのかは分からない。そこには、何かどろどろとした思惑がありそうである。

 オマケとして同封されていた1枚の新聞記事で、意外なことをいろいろと勉強させてもらったが、新たな謎を抱え込んでしまった感も強い。