「甃のうへ」

 気象台の発表による気温はさほど高くないのだが、いかにも梅雨らしいどんよりとしたお天気の日が多く、湿度が高くて、少し動くと汗をかく。相変わらず毎朝、塩釜神社の表参道(200段あまりの石段)を登るのだが、汗ばむのが少しうっとうしくなってきた。
 さて、1週間あまり前のことだが、1年生の現代文の授業で三好達治の「甃のうへ」という詩を扱った。

 

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの足音空に流れ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影を歩まする甃のうへ

 

 石畳の敷かれた寺の参道。季節は春、桜の散る季節である。微かな風が吹いている。おそらく晴れだろう。そんな中を、2~3人かと思われる若い女性が静かに話をしながら通り過ぎてゆく。石畳に明るい足音が響くということは、女性たちが下駄履きであり、和装であることを意味するだろう。この詩が書かれたのは、大正末期のことである。
 女性たちは時々、眼を上げる。その先に見えるのは、散りかけ半分の桜であろうか、それとも、芽吹き始めた新緑であろうか?
 詩の途中に現れる唯一の終止形が「すぎゆくなり」なので、ここから後ろは後半である。

 寺の瓦屋根がしっとりと緑に見えるのは、瓦が苔むしているためであるか、新緑に囲まれた中で見ることによるある種の心象であるか、だろう。作者は、女性たちの後ろを追うのか、すれ違ったのかは分からないが、楽しげに語らう若い女性たちを見ながら、一人、切々とした孤独感にとらわれる。
 最後の行で、作者は「歩く」という自動詞を使わず、「歩まする」という他動詞を使っている。使役形だが、なぜ自分が歩くことについて使役形を使ったのかは分からない。心と体とが分離した状態を作り出すことで、孤独感に沈み、物思いにふける状態を表しているようにも思う。倒置法も用いられている。通常、倒置というのは強調するために、強調したいことを前に持ってくるものであるとされるが、おそらくここでは当たらない。ここの倒置法は、「甃のうへ」を最後に起き、体言止めとすることで、余情を含ませるというのが目的だろう。「石畳の上を・・・」というわけだ。
 日本の高校生には(←ヨーロッパには石畳多いから)、日頃意識していないこともあって、「石畳」というものをすぐに思い浮かべることができない子も多い。幸い、塩釜神社の正殿前や裏参道は、立派な井内石を敷き詰めた石畳だ。部活のトレーニングでなくても、生徒はホームルームやアルバム用の写真撮影で、必ず年に1~2回は塩釜神社に行く機会がある。「甃のうへ」に描かれた情景をイメージする上で、塩釜神社は最高の教材だ。そして、私自身も、日々塩釜神社の境内を歩きながら、「甃のうへ」を思い出す。
 塩釜神社博物館から裏参道に入ったところが、うっそうとした樹木に覆われた長い緩やかに傾斜した石畳で、「甃のうへ」のイメージに最も近いところだ。
 しかし、ここに来ると南下を通る車の騒音が意外に大きくて驚かされる。そして、その瞬間、「甃のうへ」では静寂が大きな役割を果たしているということに気付くのだ。若い女性たちの静かな語らいが聞こえるのも、下駄の足音が空に響くのも、背後には静寂があるからだ。そんなことは詩の本文からでも読み取れることのはずなのに、なぜ授業の時、そのことに触れなかったのだろう?下から中学生が上ってくる。