抽象的価値を重んじる余裕・・・電線の地下化をめぐって

(12月9日付け「学年だより№29」より②)

(裏面:2019年11月19日付け朝日新聞「列島を歩く」欄、「『無電柱化』広がる議論」)
(以下 平居コメント)

 私は毎朝、塩釜駅で電車を降りると北上し、塩釜神社と塩釜高校の間の谷底を東西に走る道(県道3号線=通称「塩釜街道」)を右折して、表参道の石段を登るのだが、塩釜街道に入った瞬間、なんとも言えない晴れ晴れとした気分になる。なぜこんなに景色がすっきりしているのだろう、と考えて、そこには電信柱と電線がないことに気付く。
 空中電線のない街は、とても広々と感じられて美しい。実は、ヨーロッパの街にはほとんど電柱・電線というものがない。上の記事と違って「防災」のためではない。街の美観というものをとても大切にするからである。古い石畳の道が多いので、電線の地下化は日本以上に難しい。それでも、彼らは電線を空中に張らない。「美」は抽象的な価値である。それを大切にできるかどうかは、おそらく心の余裕や精神的な成熟のレベルを表す。
 一方、日本もようやく電線地下化の話が盛んになりつつあるが、それはほとんどが「防災」という「実利」を得るためである。高校生が「試験に出るぞ」とか、「進学で必要だよ」とか言われないと勉強しないのと同じこと。少し哀しい。
 なお、日本にあってヨーロッパにないもののもう一つの代表は「歩道橋」だ。車の通行を優先して、人に階段の上り下りを強いるなど論外。私は決してヨーロッパ崇拝者ではないつもりだけど、お金(経済効率)ではなく人間や抽象的価値(美や静寂など)を大切にするという点で、偉いと思わされることが多い。