仏事三題



 この三日間に、仏様と関わり合うことが三回あった。

 一昨日は、元宮水生S君の葬儀・告別式に出た。S君は、今回の震災で犠牲になったのだが、生きていれば現在2年生として元気に学校に通っていたはずである。S君の家は、S君のお母さんと弟(小学生)も亡くなり、生き残ったのはお父さん一人だった。これほどの悲劇はない。もちろん三人一緒の葬儀である。お父さんは私より少し若いだろうが、年齢が近いだけに、心中察するに余りある。あと15歳若ければやり直しも出来るかも知れない(もちろん、厳密には「やり直し」などあるわけないのは重々承知)。しかし彼は、家族と過去に積み重ねた膨大な時間を一瞬に失った上、なかなかやり直しが利きにくい現実と向き合わなくてはいけない。

 和尚さんの読経、引導のあと、弔電の披露があり、焼香、喪主挨拶というだけの葬儀だった。故人の経歴紹介も弔辞もない。喪主挨拶は簡単で、「香典返し」に付けられた会葬御礼の葉書も、文面は簡素そのもの。これらに私は最初面食らったのだが、やがてこうしかやりようがないのだ、と気付いた。あまりにも現実が厳しすぎて、淡々と最少限のことをやり、力ずくで気持ちにケジメをつけるしかないのだ、ということである。「無用の用」とか「沈黙は金」とかいう言葉もあるが、確かに、何もせず、何も言わないことによって強く伝わるということはあるのである。穏やかで飄々としたS君の人柄も偲ばれ、つらい葬儀だった。

 今日の夕方は、一高山の会N君の自宅に線香をあげに伺った(N君については3月30日に少し書いた)。まだ35歳だったが、消防署員として閖上に勤務していて殉職した。3月末に遺体は見つかり、葬儀は家族だけで行われた。5月の下旬に、山の会主催の「お別れ会」なるものが行われたが、私自身がショックだったこともあり、どんな顔をして宴会形式の「お別れ会」の場にいればよいのか当惑したので、あえて欠席した。

 ほんの一瞬のつもりで自宅を訪ね、結局、写真や小学校の頃の作文を見ながらご両親から1時間半にも渡ってお話しを伺った。一高山岳部やボーイスカウトのOBとして、後輩の指導と会の運営に尽くしていたことだけでも、よく頑張るなあ、と思っていたし、大学時代はヨットをやっていたということも知っていたが、他にも多くの趣味を持ち、パイプオルガンの演奏までしていたことは知らなかった。ご両親は、「他の人の70年分は生きた」とおっしゃっていたが、もちろん、だからもう十分だ、というものではない。やはり、両親なりになんとか納得の道を探っているのだと思った。

 辞去した後、私は少し心が落ち着いた。N君の死を、自分なりにどのように受け入れるか、この5ヶ月間、多分迷い続けてきたのだろう。そして、なるほど、「通夜」とか「葬儀」とか「四十九日」とかいうものは、けっして無意味にあるわけではないのだな、と納得した。

 時間は前後するが、今日の午前は、私の父の3回忌だった(父が死んだ時の話は2009年9月7日の記事参照)。こちらは至って気楽なものである。家族ぐるみで付き合いのあった人たち数名だけを招き、楽しく四方山話に花を咲かせた。

 2年くらい経つと、S君やN君についても明るく思い出話が出来るといいのだけれど・・・事情が違いすぎて、やはり、難しいかなぁ?