ひねくれ者の震災2周年(1)



 震災から2年が経った。週末、我が家の周り、いや被災地全域で繰り広げられる大騒ぎにはほとほとあきれ果てた。陸前高田の「一本松」の復元なんて、申し訳ないが、あまり正気の沙汰とは思えない。レーニン毛沢東の遺体を永久保存するのと似たような心性である。枯れてしまったのだから、松はその役割を終えたのだ。松もいい加減「疲れた」と嘆いているに違いない。気の毒なものだ。

 ものすごい風の吹き荒れた週末でもあった。我が家から見下ろす南浜町には、両日とも砂嵐が吹き狂っていた。そんな中、バスや自家用車が朝から晩までひっきりなしにやってきては、「見物」やら「追悼」やらをしていた。土曜日、ファミリーマート跡地に、ずいぶんたくさんの車と坊さんが集まってきたなと思っていたら、人の背丈ほどもあるお地蔵さんが姿を現した。開眼法要が行われたらしい。今日の新聞によれば、山形のNPOが作ったのだという。すぐ隣を走る通称「八間道路」は、市の復興計画によれば5メートルかさ上げされて第二防潮堤となることになっているのに、お地蔵さんは道路の人柱(埴輪)になってしまわないのであろうか?門脇小学校の校庭でも、何かの式典が行われていた。

 ところで、被災地の大騒ぎを私が冷ややかに見ているのは、これは誰が、誰のためにやっているのかなぁ?と思うからだ。

 今回の震災で一番辛い思いをしているのは、家族、特に子供を亡くした人であろうが、その人達にしてみれば、子供を失った悲しみは日に日に重くのしかかってきて、癒やされることはないに違いない。先日、卒業式のことについて書いた時に、私が副担任をしていたクラスから、S君という死者が出たことに触れた。実は、S君の家では、お母さんも弟も亡くなり、お父さんだけが生き残った。お父さんは、その後どのような思いで、どのような日々を送っているだろう?私はほとんど毎日のようにそのお父さんのことを思い出しては、いつまでも減じることのないいたたまれなさを感じている。しかし、どうしても声をかけることは出来ない。そのお父さんは、多くの人が追悼行事を行うことをどのような思いで見ているだろう?それによって心慰められたりするだろうか?

 おそらく私だったら、そんな追悼行事には気持ちが向かないと思う。むしろ、ひっそりとしておいて欲しいと思うのではないか?人から同情されたり励まされたりすることには、余計なお世話だという反発だけが生じるのではないか?騒げば騒ぐほど、取り返しの付かない事故の重大さが強く意識されるのではないか?

 追悼行事で何かを得るのは、その主催者のように思われる。自分は東日本大震災を重大なものとして受け止めていますよ、ということをアピールし、行事を催すことで、被災者のために何かをしたという満足を得ることが大切なのではないだろうか?それは、被災地で行われている多くのサポート事業にも、ある程度共通することである。天の邪鬼な私は、被災地の大騒ぎをそんないじけた目で見ている。もちろん、主催者だってそんなことは百も承知で、しかし何かをせずにはいられないという、第三者なりの切羽詰まった気持ちはあるのかも知れない。しかし、人間には、じっと耐えるしかない時、じっと見守るしかない時がある。

 イベントによって癒やすことは出来ない。イベントは形式に過ぎない。最終的に、苦しみは苦しみとして引き受け、耐えていくしかない。その人に多少の安らぎを与えることが出来る人がいるとすれば、それは同じ目に遭い、同じ苦しみを背負って生きている人、少なくとも故人を直接に知り、喪失の悲しみを共有出来る人だけのように思う。

 私は昨日、仙石線に乗って仙台・名取に行ったと書いた。私が向かった先は、名取にある若き友人N君の自宅である(N君については2011年3月30日記事参照)。今日が彼の命日なので、お線香を上げに伺ったのである。震災直後に初めて伺った時と、祭壇の様子がそっくりなので、お父さんに尋ねると、使っていない部屋でもあるので、何も手を付けず、そのままにしていたとのことだった。ぽつりと、「どこかでは片付けなければと思っているんですがねぇ。3回忌となればいい塩なのかなぁ・・・ 」とおっしゃった。

 N君についてだって、自宅に行ってひっそりと遺影に向かい、心優しいご両親と多少の思い出話が出来れば、と思ったのであって、どこかの追悼集会でN君を偲ぶなどということは、私にはやっぱり出来ない。ご両親にとって、私が訪ねたことが多少の慰めになったかどうか、それも分からない。