ひねくれ者の震災2周年(2)



 新聞やテレビでは、例によって「教訓を伝える」とか「体験を風化させない」という言葉が、これでもかこれでもかと繰り返されていた。何度か書いたことだが、自分の体験はせっせと人に伝えようとするのに、ふと立ち止まって、自分は過去の人の体験から何を学んだのか?と考えないのは、ひどくおめでたいことに思える。間違いなく、今回の震災の最大の教訓は、なぜ過去の津波から教訓を得て生かすことが出来なかったのか?なのである。更に言えば、それは津波に限らない。人は過去から学ぶことがなぜこれほど下手なのか、ということである。

 震災の教訓を声高に叫ぶ横で、現在進行中の武器輸出三原則の緩和や集団的自衛権の解釈拡大などについて、人は十分に鈍感だ。戦争直後の焼け野原に立ちつくした人の切実極まりない教訓や体験など、ほとんど顧みられてはいない。学校でも、戦時中に軍事国家の手先となり、子供達を洗脳して戦場へ送り出しては、終戦後、良心の呵責に激しく苦しんだ教師達の、血のほとばしるような訴えなど、ほとんど忘れ去られているのである。

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 同様に、震災以来、「復旧作業にスピード感がない」とか、「スピード感のある復旧を目指す」といった言葉を数限りなく耳にした。この言葉遣いにひどく違和感を持つのは、もしかすると私だけで、そんな言語感覚を持つ私は国語教師として不適格だ、ということになるのだろうか。

 私にとって、「スピードがある」と「スピード感がある」は意味の違う言葉で、前者は作業が本当に速いということ、後者は、実際にはたいした速さの作業ではないにもかかわらず、速いような印象を与える(受ける)ことである。前者は本物、後者はごまかしである。だから、その表現を見聞きするたびに、ふふん、人々(特に政治家?)にとって必要なのは、「スピード」ではなく「スピード感」なのだな、と鼻先で笑っていた。そして、その結果が、とにかくお金を使い何かをしていれば、復旧のために頑張っているという充実感が得られ、なんとなく世間も納得する、という現象だ。

 思えば、学校でも、求められているのは本物の教育活動ではなく、頑張っているという実感であるように見えることが多い。だから、手当たり次第にやることを増やし、形式的な作業を抱え込んで、日々余裕のない生活に汲々とし、教育活動をやせ細らせていながら、「やった」という言い訳と「頑張った」という虚構の充実とを手に入れて満足しているのである。

 とにかく金を費やし、油を燃やして、力尽くで現状を変えようというのが正しいのかどうか?トラックや鉄道で瓦礫を北九州まで運んで処理するよりは、時間がかかっても地元で処理した方が、雇用も生み出され、お金も流出せず、環境にも優しい。急ぐべきことは急ぐ。一方で、急ぐ必要のないことは急がない。何事にもメリハリというものは必要だ。そして、頑張っている気分になることではなく、頑張るべき所で本当に頑張ることが必要だ。

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 今なお、連日のように南海トラフ地震だの、首都直下型地震だの、いろいろな大規模災害についての想定の見直しをしては、かつて考えられていたよりもはるかに大きな被害が発生するとか、他のこんな災害も起こり得るとかいう憶測が大きく報道され、「対策」という言葉が連呼されている。どこまで想定し、どこまで対策を取れば気が済むのか?と思う。

 昨年2月3日の『河北新報』に載った話。宮城県は、震災の教訓に基づき、大規模災害時に県内避難者全員(想定は18万人)の3日分の飲食物を備蓄する方針を決めた。ところが、それをするためには保管・更新のために毎年5000万円のお金がかかり続けることが分かった。そこで、方針を見直して備蓄を断念し、協定を結んだスーパーやコンビニが非常時に物資を提供する「流通備蓄」を軸に、やり方を再検討することになった。

 『それゆけ、水産高校』にも書いた話。震災後、海での実習の際、どこにいても15分以内で、安全な場所に避難できるように計画を立てることが求められるようになった。もちろん、震災以前は当たり前に行われていたことが、実施できなくなる場合も多い。予防というのは際限がないという性質を持つ。震災前から、全国でさまざまな事件・事故が起こるたびに、学校は萎縮して、教育活動に制限を加えるようになっている。それが加速した感じだ。危ないと言い出せば、座学が一番安心である。だが、それがいいことなのかどうか?ほんの僅かの危険の可能性を排除する代償として、とてつもなく大きな教育効果を捨てることになってしまうかも知れない。

 これら二つの事例によって言いたいことは、実際に安全対策を行うにはコストがかかるので、「かも知れない」でむやみに対策を取るのは、メリット以上の社会的負担になり得るということ、起こる可能性の非常に低い災害のために、人々が活動を制限してしまうことは、災害が起こらない限りは、逆に大きなマイナスを生むということ、である。

 平時と非常時では、非常時の方が圧倒的に少ない。命に関わる以上は、それでも非常時に標準を合わせるべきだということになるのかも知れない。だが、そのために膨大なコストを負担し、のびのびと大自然の中で活動するメリットを捨て、高さ10メートル近い防潮堤の内側で、コンクリートの壁を見ながら生活するのは、私にはバカげていると感じられる。


 あの震災から2年が経った。私が見るに、震災後の被災地に特別なものは何もない。あるのはパフォーマンスとコマーシャルがあふれ、無駄に豊かで暇で神経過敏(ヒステリック)な今の日本社会だけである。(終わり)